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雑記帳

気が向いたときなどに。

五月祭が終わって,一瞬だけRavelに傾倒した。人間的な感情を含めながらピアノに向かうのに疲れたのかもしれない。僕のようなアマチュア(しかも正統的な指導を受けていない)は,「理性のコントロールだけでピアノを弾く」ことが難しいので,どうしても感情の助けを借りながら音楽を作り上げていくことになる。そして,必然的にこういう揺り戻しが来る。
考えてみれば,去年はLisztのRhapsodie espagnoleだったが,終わった後ほんとうになにも弾きたくなくなったのを覚えている。そこまで燃え尽きちゃダメですな。今年はまだ相対的にまし。

理性だけでピアノを弾くことが難しい理由は,ひとつには「勢い」で弾いた方が楽だから。楽な上に演奏者は結構それで満足なので,なかなか抜け出せない。これについてはまったく褒められたものではないし,少しずつ改善しようと試みている(が,成果は出ない)。
ふたつめはもう少し本質的な問題として,音楽の大きい流れが作りやすくなる,という理由。すべての音をコントロール化においた演奏は,それが理由となって,それこそ「不感症の女性のように」響いてしまう危険性が残る。もちろん,このような演奏で成功を収めた例はたくさんあるし,ZimermanやBlechczのように「一流の一流な」演奏家は,すべての音を自由自在に操ることにより,自由自在なドラマを描き上げる,という演奏法。無理な話だけれど。

そういうわけで,素人が簡単にドラマ性を手に入れようと思った場合の,最短のアプローチが「感情に頼る」ということになる。別に批判しているわけではまったくないけれど,音大の学生がよく弾くような,ああいう弾き方は僕は好きでない。好きでないから,とりわけ本番は普段の練習以上に攻めるし,ヤマは強調するし,とにかく「今のフレーズって何のためにあったんだろう」という疑問を観客が持たないような,そんな演奏を目指して弾いている。ある程度感情に身を任せきってもよい,と割り切って弾くことにしている。うん,完全に言い訳ですね。

RavelはSonatineの譜読みを少しして,Jeux d'eauをさらい直して,結局飽きつつある。感情に身を任せることが「麻薬」だったのか,はたまた日常生活で顕在化してこない,心の深層的な部分にカタルシスをもたらしていたのかはよく分からない。先生に指摘された通り,すべてのテクニックが「内向的」,音楽表現の方向に「だけ」向いているRavelの音楽には,やはりどこかで疎外されてしまっている気がする。「君はこの曲を弾いても幸せになれない」と,宣告されている気がする。18年間のピアノ生活,ひとつの方向性だけで生きていたのかなぁ。Scriabinとかもダメだったら,本当にChopinとLisztの単振動になってしまう。それだけは嫌なので,やっぱり現状は変えていきたい。

FranckのViolin Sonataをいつかまた演りたい,というのは,高校時代から漠然と抱いている夢。実現に近づいてはいる気がするけれど,現状のままでは絶対にうまくいかないから,言い出せないでいる。一歩ずつ一歩ずつ。決して終わりのない旅だけれど。

今日こそよい日でありますように。まずは目先の課題から。