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雑記帳

気が向いたときなどに。

昨日今日と五月祭があった。久しぶりに自らを外部に放出していくような感覚を味わえた。いや,味わえた気がする。
ただ残念ながら,こういう感覚は一度スイッチが入ると麻薬のようにつきまとうので,明日からまた日常に戻るのに一抹の苦労があるかもしれない。金曜日に感じたいいようのない疎外感を忘れないように生きたい。

バラ4はいい曲だ。最大公約数的なよさ,と言い切ってしまってもよい。最後の大団円に向かって緩やかなcrescendoがかかっていくような,ある意味ではBrahmsの1番のFinaleと通じるところがあるように思う。音楽は次第に自らを崩壊させていき,属調のffで終止。そう,Tchaikovskyの5番と同じ。属調終止にまったく違和感を覚えない観客には同情しがたいが,拍手が鳴ってしまうのはやはり気分が悪いので,スタンド・プレーは特例的に許容されよう。

Balladeの4曲に共通した特徴はmonologueであること。音楽用語で言えばmonophonyと言ってもよい。もともと吟遊詩人の歌であった(標題音楽的なアプローチは嫌いだが)から,自然と「旋律と伴奏」というカテゴライズになるのだろう。Scherzoとの構造的な違いは間違いなく,これ。

晩年のChopinは書法や和声を複雑にしたぶん,polyphonicな音楽からは(意図的に)後退していったように思う。ふたつの「練習曲集」がOp.10とOp.25という「初期」の作品であることは注意しておいた方がよいかもしれない。4番はとりわけmonophonicな音楽で,旋律のラインは最後まで一本のままである。f-mollという調性にみられる「懐古的,内省的」なイメージ,Variationという形式はともにこの目的のために存在するように思えてならない。右手の旋律はいくら修飾を加えられ華美になっても,その屋台骨の部分は変わらない。

演奏にあたっては,周りの修飾部分から旋律部分を掘り出す作業がかなりの割合を占める。そう,結合組織をはいで神経の1本を剖出する作業とどこか重なる。丁寧にご遺体に向かえば,皮神経の異なる走向も見ることができる。楽譜に隠された対旋律を探し出し強調する作業と,どこか重なる。

そう,楽譜はアトラス,あるいは実習のてびき,なのかな。

僕はまったく鈍感な人間だから,譜面だけで複数の声部を選り分けることはできない。ただのBachの不勉強のせいだけれど。楽譜だけからすべてのanalyseをしなければならないプロに比べて,われわれには実習の機会が与えられたのだから,やはり「普通の」学問は才能の少なさに寛容なのだろう(そうでもしないと世界が成り立たないからね)。


もうちょっと音楽と一体になりたかった,不要な感情が入ったのかもしれない。それだけが後悔。
まあ,今日のところは一応合格点ということにしておこう。しばらくこの曲は置いておいて,ふっと人生に疲れたときに弾きたい。

明日は小テストだし,そろそろ現実に帰ります。また気が向いたときに。