「アーティスト」と呼ばれていたミュージシャンと言う存在は、

誰でも成れてしまうと言える

と言うは言ったが、それは決して同等の位置と言う訳ではない。

 

「アーティスト」とその他一般層との差、

それはセンス、感性が有るか無いか、その差なのだと思う。

天賦の才、感性、センス。

 

それは決して音楽的知識を得れば身に付くものでは無い。

沢山作曲をすれば身に付く訳でも無い。

演奏が上手くなれば身に付く訳でも無い。

感性、センスとはその人が生まれ持った特性なのだと思う。

磨かれる事は有ってもそれが変異する事は無い、

人間の性格と同じで、どんな事があろうと何を言われようと、

根底に有る根本的なものは変わらない、

それが繊細であり研ぎ澄まされた感性、センスであるか無いか、

それが俗に言う自称ミュージシャン、そこらのありふれたミュージシャンと

「アーティスト」との大きな差だと思っている。

 

ネットの普及により才能があろうがなかろうが

一般層がレコード会社と契約しなくとも、契約出来なくとも、

自作品を自由に発表出来る様になった。

それは大いに素晴らしい事だ。

だがその反面、前述通り感性の無い音楽も氾濫し音楽全体の質は下がったと思う。

別に自分自身音楽家では無いし根拠も更々無いが自分はそう感じる。

あるアーティストの言葉を借りるならば、消耗品の音楽。

 

良い物も悪い物も音楽作品が氾濫し、

本当の意味で質の良い芸術としての音楽、

人の心を打つ様な、心が洗われる様な音楽の見分けがつかなくなってしまったとでも言うのだろうか。

 

今のチャートで売れている音楽があと10年後、

どれだけの人が覚えていて聴き続けているだろうか。

到底聴き続けられる音楽が有る様には思えない。

それは音楽と人との付き合い方の変化にも関りがあると思う。

 

サブ的な役割として音楽を聴く、

いつからかそれが人と音楽の主流な付き合い方になってしまったのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

ここ数年で音楽と言う芸術はとことん一般人に近付き身近なものになったのではなかろうか。

いや、ここでまだ「芸術」と言う言葉を使うには自分の思惟を述べる上で語弊を招くので、

音楽と言う「創作活動」にしておこう。

 

DTMの進化発展により、独りでも、更には楽器が全く演奏出来なくとも、

商品レベルの打込み音楽が作ろうものなら作れてしまう。

自分は鍵盤が弾け作曲も出来るが、DTMの知識は無いに等しい。

シンセで打込みを軽くした程度。

 

だが恐らくDTMを扱っていた知人の話を思い返すと、

DTMと言うのは素材の切り貼りの世界で、

それだけでも十分曲が完成してしまうのだと思う。

 

「身近なものになる」 と言う事は言い方を変えれば、

「誰にでも出来る」 と言う事でもある。

 

それはつまりかつては孤高で憧れの存在であった筈の

「アーティスト」と呼ばれていたミュージシャンと言う存在は、

誰でも成れてしまうと言える。

 

自称アーティスト、自称ミュージシャン、

ネットの普及も手伝い、それだけで十分かつての「アーティスト・ミュージシャン」と同じ位置に立てるのだと思う。

 

だからか、それだけが理由では無いが、

80年代90年代の様な大衆性を帯びた音楽は現在はほぼ存在しない。

音楽番組や音楽雑誌、かつての音楽メディアの衰退がそれを証明している。

 

身近に成り過ぎた故に、音楽作品が氾濫し情報過多となり、

大衆の興味が薄れて行った、いや、上手く表現が見つからないが、

珍しくなくなってしまったとでも言うのだろうか。

 

食品の様にあって当たり前のもの、

勿論食品だって当たり前に存在しているわけでは無い。

農家や工場等で働く人達の生産努力有ってこそのものだが、

世間一般的にはスーパーに行けば当たり前に不自由なく沢山存在している認識、

良くも悪くも音楽もそんな存在になってしまったのだと思う。

 

 

 

 

 

 

ジム休んだ。

先週も水曜休んでしまっている。

今日は現場補佐で汗だくになり、大した事はしていないのだが、

この暑さのせいかそれからずっと身体が怠くなってしまい疲労もあり休息を優先。

先週も暑さにやられ。

まあ筋トレは怠けず継続しているので良しとしよう。

 

とにかく今日は普段より早めに休む。

 

どうでも良い話を一つ。

最近有線でたまに聞く「おいさんおいさんおいんさん・・・」とおっさん連呼の曲、

「おいさ」なんやな、、