缶詰になって幾日も講義を聞いております。

朝から晩まで、90分聞いては10分休み。120分聞いては10分休み。

昼休みは50分だけ。しばらく学校から離れている者には、なかなか大変です。

暗くなって会場を離れたら、そこから仕事なり、地域会の活動へと向かいます。

まず元気であることに感謝せずにはいられません。

そうして動けるわが身を振り返りながらふっと口に唱えてみました。

「生老病死」(しょうろうびょうし)と。

誰でも知っている四字熟語。仏教最大のテーマだとも聞いています。

しかし言葉は知っていても、意味はどれだけわかっているのだろうか。

講義漬けになったせいで、そんなことを思ってしまったのですが、

よくよく考えてみれば、私はまだ、「生老病死」の「生」しか知らないのでした。

ちょっと前まで、生と病を知っていると思っていました。

しかしそれなら「老」の後に「病」が置かれることはないでしょう。

そういう視点で眺めると、

「生」の中で起こりうる病気やケガ、もしくは病気にもなりそうな悩みなどは、

曇ったり、風がふいたり、雨になったりするいわば天気みたいなもので、

「生老病死」で説かれている「病」でないのだなと、直観したのです。

「老い」たあとにやって来る「病」その後に迎える「死」。

順番を変えずにやってくる「病」、この位置づけを忘れていました。気づかずにいました。

そうやって構えてみると、順番の大切さが迫って、きはじめました。

「老」と「死」の間に置かれる「病」というのは、結構な、いや相当な重みをもちます。

「死」に向かっていくための「病」です。「死ぬ」ために起こす「病」とも言えそうです。

「よく死ぬとは、すなわちよく生きることだ。」という、

昔、キザな文章に酔っていたこともありました。

しかし、今は思います。よく生きるとはどんなことをいうのでしょう。

そして、よく死ぬとはどんな状態をいうのでしょう。

文章は実に美しいが、実は、何もわかっていなかったなと、最近、気づかされました。

元気であればよいのか。健康であればよいのか。楽しければよいのか。

仕事があればよいのか。飯が食えればよいのか。争い事がなければよいのか。

好きなことができればよいのか。どれも違うとわかっていながら、

わざと書いているのですが、実際は、この日常から出てはいない自分がいます。

同時に「老いた」と自覚するも難しそうです。疲れが溜まるようになった。

何かすると腰が痛い。節々がだるいなどというのが老いの一般的表現はありますが、

それも本当は違うような気がします。

「老い」に立っていると覚悟することから、老いがはじまるのではないか。

そこを覚悟しないと「病」もやって来ないのではないか。すなわちよく「死」ぬことはできない。

覚悟のない「老」。覚悟の無い「病」。そして覚悟のない「死」。

そうした様を見せて逝かれたさまざまなケーススタディ(表現が失礼ですが)を伺いました。

人生がこの4章で成り立っているのだとしたら、

私はこれから3つのステージを通らなければなりません。

まるで覚悟ができていないなと、思い知り、実に重い気分になりました。

 

前向きに締めくくれば、ようやく本格的に生きていけるかもしれない、

そんな機会をいただいた講義であり、この一冊でした。

 

おかげさまですべて上手く行っています!

今回も実に良き本に巡り合えました。

本日もお読みいただきありがとうございました。