The Good Citizen
レクチャー2 奴隷制に正義あり?Ⅳ
奴隷制が正義に適うための条件
1.社会にとって必要であること
2.奴隷にふさわしい人がいること
奴隷制が正義に適うためには、この2つの条件が満たされ、それが正しくならなければならないと、アリストテレスも認めている。彼は、嘆かわしい異説を残している。生まれつき、奴隷に適した人間がいることは、事実である。肉体が魂とことなるのと同様に、このような人間は、普通の人間とは異なる。統治されることを定められた人間なのだ。彼らの本質は、奴隷となることで、活かされる。他者の理性を認識することはできるが、それに預り、行使することはできない。我々にはそのことが分かっている。アリストテレス自身も、自らのこの主張が如何わしく、無理があることを悟っていた、に違いない。なぜなら彼は、反対派の意見も一理ある、と認めているからだ。反対派の指摘は、こうだ。アテネにいる奴隷の多くは、生まれながらの奴隷や奴隷に相応しいものではない。彼らは戦争に負けて捉えられ、仕方なく、奴隷になったのだ。だからアリストテレスも古代のアテネに存在した奴隷制には、必ずしも相応しい者が奴隷になったわけではないことを認めていた。奴隷の中には、運悪く、戦争で捉えられたものもいたからである。アリストテレス自身の考えでは、たとえ市民のために、奴隷制が必要であったとしても、相応しくない者が奴隷になるのは正義に反していた。不適合が生じているからだ。奴隷に相応しくない者に、その役割を与えるのは、一種の強制だ。ただし、強制そのものが問題なのではないl。自然に適わないことを強制することが、問題なのだ。誰かを強制的に何らかの役割につけることには、それが本来の彼の役割ではなく、彼に適していないということを示している。アリストテレスは、奴隷制を擁護した。しかし、彼の目的論の議論や人と役割の適合が正義だとする考え方は、原理的には間違っていない。なぜならアリストテレスが、彼の理論を奴隷制に応用したとき、何が間違っていたを、彼自身の言葉によって説明することが可能だからだ。
では、自由を巡って、アリストテレスの理論に、さらに切り込んでみよう。
その前に、君たちの意見を聴かせてほしい。適合を正義とするアリストテレスの理論、正義の目的論的な論法、それから、権利や分配的正義における名誉という概念どう思うだろうか。これまでフルート、政治、ゴルフの例を考えてきたね。アリストテレスに関して不明な点はないかな?あるいは、彼の理論全般について反論がある人。
君。
僕は、アリストテレスが個人と役割を一致させようとする点に反対します。例えば、海賊のように歩き、海賊のように話していたら、海賊になるべきだ。アリストテレスはそう主張しています。でも彼の考え方は不自然です。矛盾さえ感じます。海賊のように話したり、歩いたりする人がいたら、その人は投資銀行家になるべきではない。本質的に向いていない、ということになってしまいます。義足をつけ、眼帯をして、不機嫌そうな態度なら、海賊船に乗り込み、海に乗り出すことになってしまいます。だから・・・(S) ああ、それなら、海賊と投資銀行家の間には、それほど違いがないのかもしれないよ(T)(笑)(拍手) だが、言いたいことは分った。君、どうぞ。
個人の権利が、無視されているように感じます。例えば私が世の中で、ある仕事に一番向いていて、誰よりも効率よくその仕事ができるかもしれない。その場合、例え私がその仕事につくのがいやでも、他の仕事に着くことを否定されてしまうように思えます。君の名前は?(T) メアリー・ケイトです。(S) もう少し意見を聴いてみよう。君。(T)
先ほどのゴルフ・カートに関する議論が、アリストテレスの目的論的論法に対する反論を投げかけていたと思います。(右横を向いて) 君は、マイケルだったよね?マイケルは、歩くことはゴルフの本質だ、といいました。でも僕は歩くことは、ゴルフに固有のものではない、と思います。この論争に、どれだけ長い時間を費やそうとも、僕たちの意見は一致することはないでしょう。(S)君の名前は?(T)パトリックです。(S)
アリストテレスに対する一連の反論について、考えてみよう。まず、パトリックの反論からだ。これは、重要な反論だ。我々は、歩くことが、ゴルフの本質かどうか議論してきたが、そうした一見、些細な議論でさえ、同意に達することはできなかった。もっと重要な問題、例えば、政治的コミュニティーの根本的な目的を論じるとしたら、意見が一致するはずがない。 市民の共同生活における、目的や善について、同意を得ることができないのであれば、我々は、目的や善と言う概念に基づいて、正義あy権利を考えることもできないだろう。これは重要な反論だ。だから、現代の政治理論の多くが、善についての意見の不一致を議論の出発点としている。そして、結論としては、正義や権利や憲法は、特定の善の考え方や 政治的生活の目的などを前提にすべきではない。
アリストテレスへの反論
正義や権利や憲法は、特定の善の考え方や 政治的生活の目的などを前提にすべきではない
そうではなく、権利の枠組みを提供し、人々に自分たちの善や人生の目的を自由に選ばせるという発想にしているのだ。一方、メアリー・ケイトが言ったのは、例えば、ある仕事に相応しい人が、もっと高いところを目指したい。別の生き方を選びたいと思ったらどうなるかどうか、という問題だった。ここで、再び自由の問題が出てくる。もし私たちが、自分たちの本質に相応しい役割に基づいて、生き方を決められてしまうなら、少なくとも私たちが、その役割を選ぶ自由があるべきではない。どの役割が相応しいか、自分たちで決めるべきではないか。アリストテレスと、カントやロールズの論争を思い出してほしい。カントとロールズは、パトリックと同じ考えだった。多元的な社会においては、善き生の本質について 同意することができない
カントとロールズ
多元的は社会では 善き生の本質について 同意することができない
だから、この問いに対する答えに基づいて、正義を考えるべきではない。カントとロールズは、正義と特定の善の考え方を結びつけるような目的論を退けた。ロールズ的、カント的なリベラル派によれば、目的論の論争について重要なのは、次のことだ。正義をある特定の善の概念と結び付け、正義が人と役割を適合させることだ、と考えれば、自由の余地は残される。そして自由であるためには、自分の両親や社会から与えられるような、特定の役割、伝統、あるいは慣習などにとらわれるべきではない、ということになる。
カントとロールズ
自由であるためには 特定の役割、伝統、慣習にとらわれるべきではない
アリストテレスか、もしくはカントとロールズか二つの大きな伝統のどちらが正しいのか、判断するために、吟味すべき問題がある。1つは、権利は善に優先するのかどうか。そしてもう一つは、自由な人間、自由な道徳的主体とは、どのようなものなのか。
1.権利は善に優先するのか
2.自由な道徳的主体とは、どのようなものか。
自由とは、自分の役割や目標、目的を選択できることなのだろうか。それとも、自分の本質を見つけようとすることなのだろうか。次回、これらの問題を取り上げよう。
あくまで個人のメモです。ご参考に留めてください。