長野堰
昨日はポタリングで1時間半、15km弱も走ってしまいました
ただし平均時速は、9.59kmと超遅ですが・・・
走っている最中、急に長野堰(ながのぜき)の源流(取水口)を見たくなり、頭首工のある高崎市本郷の烏川沿いまで行ってしまいました
あ、長野堰につきましては、本ブログ記事最後の「【参考】長野堰とは」をご覧くださいませ
↑烏川からの取水口です。
写真の奥が烏川になります。
↑写真の左が烏川で、水は左から右に流れています。
取水路と並行して養鯉場があるんですね~
ちょうど食事の時間だったらしく、エサが自動的に出てくるんですね~・・・鯉が物凄い勢いでエサを食べていました
ここから長野堰が始まるんですね~
↑ここで水流は一旦、暗渠に吸い込まれます。
ここからは直ぐ右側の小堀川と、その先の榛名白川の下を潜って我峰町で再び地表に出てきます。
↑我峰町信号の北側に暗渠からの引き出し口があり、ここから水の流れに沿って遊歩道が始まるらしいのですが、ここでジジイは疲れてしまいました
後日またここからスタート、暗渠からの引き出し口を見つけ、ポタリングもしくは散歩で最終的には長野堰遊歩道の終点、城東小学校近くにある「円筒分水堰」までのブラリひとり旅を展開していきたいと思っております
何せオラ、世界一ヒマですからね~
※【参考】長野堰とは・・・(ウィキペディアより)
長野堰(ながのぜき)は、群馬県高崎市中部に農業用水を供給する用水路である。
928年(延長6年)に長野康業が長野堰の開発に着手したと伝えられている。
時代が下って1551年(天文20年)長野康業の子孫である4代目箕輪城主の長野業正は長野堰を整備し、現在の長野堰の原型を作った。
当時、現在の頭首工付近で烏川と合流していた榛名白川から取水して、榛名山南麓を中心に灌漑していた。
その後、支配者が後北条氏、井伊氏、松平氏などに変わったが、各時代で用水路の延伸や整備が進められていった。
1708年(宝永5年)高崎藩主・大河内輝貞は、榛名湖から隧道(ずいどう)を掘ることで引水しようと試みたが頓挫した。
1904年(明治37年)長野堰の水量を確保するために、榛名湖から榛名川を経由して烏川に流すために榛名山天神峠に隧道が開削された。
現在の長野堰は、烏川中流の町屋橋から300メートル上流の高崎市本郷町に長野堰頭首工を設けて取水している。
水路は概ね南東方向に進み高崎市街地北部を横切る。この間、暗渠の部分もあるが主に地表の3面コンクリートの水路を流れる。
住吉町から一部分水し堰代町をへて高崎城の堀割に流している。その先は高崎市東町で佐野分水が分岐し南の佐野地域を灌水する。さらにその先の江木町の城東小学校南側の地点で地獄堰・上中居堰・矢中堰・倉賀野堰の4水路に分流する。
この分流の水量の多少をめぐって争いが絶えなかったため、1962年(昭和37年)に円筒分水堰を建設した。
これは、円筒形の施設でサイフォンの原理を利用して水量を公平に分ける斬新な方法である。
4水路は各地域に用水を供給した後、烏川や井野川に注ぐ。
2016年(平成28年)、国際かんがい排水委員会のかんがい施設遺産に登録。