2020年11月21日-23日の三連休にかけて,第71回駒場祭が開催された.今年度は新型コロナウイルス感染症の影響でオンラインでの開催となったが,オンラインならではの特徴をフル活用して出展していた団体が多く,新たな学園祭,ないしはイベント開催の形を目の当たりにしたと思っている.もちろん,従来どおりリアルで開催する学園祭が恋しい気持ちは払拭されないが.

 

さて,私は今回の五月祭において,UTaTanéの企画制作に携わってきた.今回で4度目の出展となる色のパッチワーク,昨年の駒場祭で初登場した架空商品カタログ捻じ曲げ見出し,オンライン五月祭に登場したすれ違い絵描き歌,そして今回初登場のオノマトペキャラ図鑑オノマトペダイアログうたたねしながら聴くラジオの,計7企画というなかなかなボリュームである.そのうち,私が主に担当した企画は「オノマトペキャラ図鑑」と「うたたねしながら聴くラジオ」の2つである.以下ではそのうち,言語学の研究者である青井隼人さんに監修していただいた「オノマトペキャラ図鑑」に主眼を置きながら,2つの観点から企画を振り返っていきたい.

 

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①人文科学(言語学)を科学コミュニケーションの文脈に落とし込んだこと

人文科学・社会科学を科学コミュニケーションに落とし込む取り組みは,2年前の白猫ラボを担当していた頃から行ってきている.特に,11月に行った「消費者心理とマーケットメカニズム」の回は,心理学と経済学を主軸に展開した実験教室になっており,ありがたいことに参加者から好評を得ている.しかし,私の専門はあくまでも化学であり,人文科学・社会科学に関しては素人も同然である.本当のところ,「すべき」だし「やりたい」のに「できない(するには力不足)」のである.

 

そんなときに転機が訪れる.2019年のサイエンスアゴラで行われた「お台場100人論文」という企画において,科学コミュニケーションにおけるエンタメの目的化について警鐘を鳴らす内容の投稿をしたところ,予想以上に大きな反響をいただき,何人もの方々からコラボのお願いをいただくことになった.私自身の力不足もあり,すべての方とコラボ企画を行うことは叶わなかったが,そんな中でもコラボにたどり着くことができたうちの1つが今回の実践である.

 

来場者からのコメントを見て,大いに驚いたことを今でもはっきりと覚えている.科学・技術と社会の関係を考えるイベントであるにもかかわらず,言語学の研究者(後の青井さん)からコメントが届いているではないか! 当時は言語学がどのようなものなのか全くわからないし,苦手な英語の印象が強くあったためむしろ立ち入れない領域なのではとも思っていた.ただ,人文科学・社会科学を欲していた私にはそのようなことはお構いなしで,むしろせっかくなら言語学について少しばかり学んでみようかとも思うくらいだった.

 

「ことばと文化」「ソシュールと言語学」「『文』とは何か」といった本を読む中で,言語学というものへの見方が変わった.言語学は,大量の単語や文法を覚えて文書を読むという語学的/実用的なものというより,単語の意味はどのように決まるか,品詞がどのような役割を持っているか,といった根源的な部分を対象としていた.UTaTanéの今年のテーマは「見える世界、見えない世界」であるが,まさに今まで「見えない世界」だった言語学がわずかながら「見える世界」に変わったのである.さらに,今回のコラボの縁で青井さんが所属する東京外国語大学にお邪魔して,モバイル・ミュージアム「日本の危機言語・危機方言」を鑑賞した.東京に住む私が「しもやけ」と言っている現象が,北陸などの雪国では「ゆきやけ」と言っていることなど,今まで全く意識に上らなかった言葉と文化/環境について考えるとても良いきっかけになった.

 

このような経緯でUTaTané内の共同プロジェクトとして言語学を扱った企画を行うことにし,準備を進めていたのだが,そんなさなかで新型コロナウイルス感染症が拡大し,生活だけでなくイベントの形態も大きく変化した.それにともなって,プロジェクトの計画も形式も一から見直さなければならなくなり大変ではあったが,何度も話し合いを重ねた結果として,今回の駒場祭で「オノマトペキャラ図鑑」を披露するに至った.「オノマトペキャラ図鑑」の制作にあたってどのような意図を持っていたか,どのような成果が得られたかなどについては,いずれまとめてみたいと思っているので続報をお待ちいただきたい.

 

さて,私は今回は言語学を科学コミュニケーションの文脈に落とし込んだが,人文科学・社会科学そのものを伝える場がもっと設定されても良いのではないかと考えている.大学が主体の学園祭においては,人文科学や社会科学を伝える企画がいくつもあり,私自身学びつつ自身の伝え方を見直す機会として興味深く参加させていただいているが,外部のイベントに目を向けると自然科学に関する企画が多くなっており,人文科学や社会科学そのものを広く伝えることを目指す企画はあまり多くないように思える.一方で,それらの中には高校までに教科として学習しないものもあり(言語学.心理学,教育学,…),「見えていない」ことに気づかないまま議論や意思決定が行われることもままある(特に教育は強い当事者性と規範的性質からこの傾向が顕著).そのため,人文科学や社会科学を伝える活動には大きな意義があると考えている.まだ十分に調べられておらず,おそらく既にいくつも先例があるとは思うので,今後それらを参考にしつつ言語学を伝える企画(「言語学コミュニケーション」とでも名付けよう)を制作していきたいと考えている.

 

 

②「翻訳家」としての科学コミュニケーターのあり方を示したこと

私も今回の企画にあたってある程度は言語学を学んだが,もちろん言語学を伝えていくにあたって必要な知識や理解は十分にはともなっていない.だからといって,言語学を極めた人でないと言語学を伝えてはならないというのであれば,何かを伝える活動自体が滞ってしまう.さらに,「知識や理解」と「伝えること」とは基本的には別のスキルだろう.そこで私が今回立ったスタンスは,言語学の内容を「翻訳」して伝える役割である(「翻訳」については,vol.14を参考にしていただきたい).

 

私が見た限られたごく狭い世界や論文等を見た限りでは,科学コミュニケーターが自身の専門を主軸に伝えていくことや,科学コミュニケーターがサイエンスカフェなどの「場」を設定して専門家に話してもらう,といった形式をよく見る.これ自体は大きな意義があると考えており,活動がもっと普及してほしいと願っているところであるが,一方で「伝えたいことや伝えたいという思いはあるが,それが上手く伝わっておらず/それを伝える場がなく困っている」領域もあり,実際今回行った言語学などの人文・社会科学の科学コミュニケーションはこのような状況になっているように思える(人文・社会科学における科学の祭典のようなイベントはあまり行われていないようである).

 

そこで必要になるのが,今回の私のように「伝えたいことを伝えるために題材を『翻訳』する人」であると考えている.つまり,知識や概念の部分は専門家に任せて,それを伝えるために形・表現といった伝え方をデザインする役割を私が担うという形である.自分ですべてこなすわけでも,専門家にほとんど任せるわけでもなく,双方の得意分野を活かせるようにマネジメントしつつ,専門家からのインプットを伝わるようにアウトプットすることである.ある意味両者の間を行くやり方といえよう.

 

このようなやり方を行う最大のメリットは,内容と表現の双方が担保されることにあると考える.非専門分野の内容を科学コミュニケーターだけで伝えようとすると,どうしても内容面の充実さが失われてしまい,場合によっては表現が独り歩きして伝えるべき内容が抜け落ちる可能性がある.一方で専門家に多くを任せてしまうと,内容面は担保されるもののそもそも科学の世界に生きていない人にとって暗号のように捉えられてしまう可能性がある.科学コミュニケーターが持つ表現面の強みと,専門家が持つ内容面の強みとを上手く掛け合わせることで,「伝えるべきことが伝わる」科学コミュニケーションになるのではないだろうか.ここに,「翻訳家」としての科学コミュニケーター(「科学トランスレーター」とでも名付けよう)の可能性があるように思える.

 

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さて,ここまで「言語学コミュニケーション」や「科学トランスレーター」について見てきたが,もちろん1回の実践で完璧に仕上がるというわけではなく,課題点が多々見られた.特に「科学トランスレーター」としての私の力量不足により,入口からのめり込むまでのデザインに改良の余地があるように思える.まだまだ「言語学コミュニケーション」の道は始まったばかり,今後様々な場で実践を積み重ねていく中でブラッシュアップを重ねていきたい.