神祀りの第一は縁である

しかし、何ごとも「始まりがあれば終わりがある」

これは覚えておかなくてはならないことだ

本来なら神祀りは一代ではなく代々に渡り祀り通すことが神様への「筋を通す」ことになる

神祀りとは、自宅へ神様に「お越し頂く」こと

オミタマや尊像は神様そのもの

御札と言えど祀り方を間違えなければ神様は御札を通してお越しになる

それだけに神祀りはきちんと先を考えておかなくてはならない


とくにオミタマや尊像は御札と違い、次の「祀り手」を決めておくべきなのだ



だが、どうしても祀るのが不可能の場合には「神上げ」は必ずやらなくてはならない

これは祀る側の最大の責務と言える

オミタマや尊像は御札とは違い力があるからと安易に祀るが、そもそも「祀る」この意味を履き違えているのではないか

先にも言ったが、祀るとは神様を自宅に入れると言うこと

神様を自宅に入れるとはどう言うことかを先ず理解しておかなくてはならない


神様を自宅に入れるとは、「生きた」我々と同じ扱いにならなければならない

要は「お給仕」である


そして「清浄」な場を心がけなければならい


祀って手を合わすことは何より大切だが、それだけで何もしないのは来て頂いた神様に対し最大の「不義理」なのだ

出来ないのであれば初めから祀るべきではない

祀るなら自身の生涯に渡り「仕える」気持ちで祀るべきだ


ご利益主義の神祀りでは来て頂いた神様も「お帰り」になられる


「自惚れ祀り」をするくらいなら、縁のある寺社へ参りに行くだけで十分だと思う

目に見えない存在ほど怖いものはないのだ


それだけに、覚悟を決め襟を正し祀りの心得を理解し、神祀りをするべきだと思う


神棚や祭壇などをすえるとは、それだけ大変なことなのだ


あと、神祀りは基本がある


本やネットを見て神祀りをする人がいるが、私にしたら

こんないいかげんなことはない


祀るなら、お越し頂く神様の神社や仏閣で教えて頂くことを推奨する


神様によって祀りはさまざまだからだ


神様が一番落ち着かれる祀りを心がけることが何より肝要なのです


初めに神祀りは「縁」と言ったが、縁を得て神祀りを始めたなら「一筋」が無ければ祀る意味はない