「神様に呼ばれた」このフレーズをよく耳にする

行ったことなければ、そこの神様が誰かも知らない、だが何故か惹かれる

しかし訪れたことで何かを得ることができた

神様が教えるために「お呼びになった」

こう聞くと確かに神様の「お陰」を頂いたんだと
思う

さて、「呼ぶ」「言葉を頂く」この部分を簡単に考えるが本当にそれでよいのだろうか

私はこの部分に「怖さ」しかない

目に見えないものほど怖いものはないからだ

道を歩いていて、いきなり呼び止められ他人の家に入って行くのと同じ

目に見えたら拒否する
目に見えなければ受け入れる

ここはさすがに考えるべきではないだろうか

稲荷山には三万と言われる神様がいる



このほとんどが「眷属」

オダイや巫覡に神託を降ろすのは、この「眷属」であり、主祭神たる稲荷大神自身が神託を降ろすことはない



稲荷山では、どの「神様」も呼ばれる



「うちに来い」「お前の悩み知ってるぞ」「金儲けさてやるぞ」


およそ人の心に持つ願望を「エサ」に「呼び込み」をしてくる


これが何を意味しているか?



「呼び込み」→「願望成就」→「信者にする」



ありがとうございました!と、お礼参りしたら終わり…



そんなわけがない、そんな甘い世界ではない



これが、「不義理」となって忘れた頃にドカッンと被ってくる


この辺りが「稲荷信仰が怖い」と言われる部分


しかし、これはお稲荷さんだからこうなると言う話しではない


どこのどんな神様でも同じこと


神様は一番に「礼儀礼節」を重んじられる


そもそも、この世にそんな甘い話しがあることはない


何にでも「お世話」になれば代償はいる



神様が悪いのではなく、全ては人間側の身勝手な考えが悪いだけ




だからこそ、お世話になる神様は決めるのが一番良い


要は続けられるか否か


続けられるように、その「道筋」を説くために「信仰」と言うものがある


例えばの話し


一年に一度会えばいい人と、しょっちゅう会う人とでは、どちらに親近感があるか


たまに来て千円のお賽銭入れる人と、毎日10円を握りしめて来る人と、神様はどちらを覚えていて下さるか



単純に言えばここの話し



神様だから特別などはない



神様も私たちと何ら変わらない



だからこそ、「礼儀礼節」「義理」これを忘れてはならない


口先だけの「心を込める」は通用しない



本当に「縁」がある神様仏様とは限られている



だからこそ、縁を得たなら「一筋」と「一念」がなければ何にもならいのだ




「八方美人」では相手されない


浮ついた考えで「フラフラ」するのは単なる「観光」と変わらない




神仏を口にするのであれば「誠を尽くして」「道理を知る」ここが無ければ本当の「霊験」は受けることはないのです




そして神様は「ご利益製造機」ではない



その人その人の「心」を見てられる

神仏に一筋通すのは、自身の「生き方」にも一筋通すこと

神仏はそれを「教えたい」だけなのだと思うのです