辯才天も稲荷神も現世利益に強い神

しかし、間違ってはいけないのが「神に付くか、人に付くか」

人に言われて信心する信仰するのと、自らの意思で向かうのとでは大きな開きがある

ネット社会の今、情報だけは溢れている

だが、情報のみで知識が入ることはない

神仏の世界は、そこに身を置き「一筋」がなければ得ることは不可能と言える

少なく見ても「3年」続ければ見えてくるものもあるかも知れない、だが全てではない

言えば「入口」に過ぎない

そんな甘い世界ではない

よく稲荷信仰において「霊感」で物を言う人もいるが果たして「正神か?邪神か?」ここが重要になる

相手は「眷属」 いとも簡単に「嘘をつく」からだ

余程の行を積み正神の神託を受けれるものは、あれこれと語らないもの

神との話しは秘密だからだ

オダイは神と信者の間をとり持つ

これも信者一人一人と神との秘密

信者であっても無闇に神託は他言してはならいこと

神に付けば、正しい神託が降りる

人に付けば、それは「人の言葉」にしか過ぎない

信仰は一人と言ったが一人でなければ正しいものを得ることはない


人に付けば必ず「振り回される」からだ


今の時代、人に左右される方が多いようだ


今はいいだろう


だが、一生涯今と同じ気持ちがあるだろうか?


信仰とは一時の感情でするものではない


自らの一念で神や仏に向かって行けば必ず導きと神託を受けることができる


「直感」で事に移すのではなく「正道」を通すことが一番の早道となる


人である限り人に左右されることはある



神に付き、神に向かえば、いずれ確固たる信心が育まれ「本当の幸せ」が分かる時が必ず来るもの



他に左右される信心など信心とは言わない


一念通す、一筋で行くからこそ信心


並大抵のことではないが、神仏に向かうならこの精神を忘れず日々先祖を敬い神に感謝を怠らないことが何より肝要なのです


最後は「自身の祈り」が物を言うのだと