稲荷山とは言わずと知れた稲荷信仰の聖地
稲荷信者にとっては「親」に会える一つの「ふるさと」と言える
地方の熱心な稲荷信者は「旅行へは行かないが、伏見のお山だけは必ず行く」と言う
それだけ「お山」とは特別な場所
そこには「自分だけの祈りの場」がある
稲荷山は神々が住うお山
だからこそ、神仏を分け隔てなく祈ることができる
稲荷神を拝み、また自身が信ずる神仏も同じく拝む
これも稲荷大神の懐の深さであり稲荷山の祈りの姿
稲荷山で辯才天をいつも拝む
以前は稲荷山と比叡山を股にかけ行に勤しんでいたが、今は稲荷山で稲荷大神と共に辯才天を祈っている
何か一貫性の無い感じもするが、稲荷山では必然な祈りの姿
稲荷山には至る所に辯才天のお塚がある
しかし、これらお塚を拝まずとも意識を比叡山に向ければ辯才天とリンクできる
それだけ稲荷山とは懐が深い霊験著しいお山なのです
「稲荷信仰は眷属信仰だ」そう定着しているが、それは大きな誤り
稲荷山で行を積めば自ずと知るこてができるでしょう
今の時代、信仰の場とはどうあるべきか?
それに対する意識が薄れて行こうとしている
時代が変わろうと変えてはならいのが信仰の形
祈りの場は今も昔も同じ姿で祈るのが信仰と言うものだ
風潮として、信仰ではなく「神や仏の声が聞きたい」そんな愚かな考えが増えている
霊格の高い神霊は言葉など降ろさない
ただ一筋に祈りを深め「今を生かされている幸せ」「神仏と共にいる」これをさとれば何らか受けとることが出来るもの
情報ではなく、「己の祈り」から深めて行くことが真の神霊を知ることになるのです