糸魚川ジオパークの紹介266 田海と奴奈川の里 | 糸魚川ジオパークのおじさんのブログ

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日本で最初に世界ジオパークに認定された糸魚川ジオパークの魅力や出来事などを紹介します。

 田海から須沢地区にかけても海岸は砂丘の連続です。人々は砂丘の内側に住居を構え、街道も通っていました。現在は、砂丘の海岸近くにバイパスが通り国道8号線となりました。昭和の中頃までは砂丘の南側は低湿地帯で見渡す限りの水田が拡がっていてまさに田海の名の通りの状況でした。更に低地帯の田んぼに青海通り線が出来て居住地も増え水田は見られなくなってしまいました。



    昭和30年頃の田海は一面田の海でした。デンカの工場もみあたりません。黒姫山の階段状の採掘もまだなく、近くにみえるのは西蓮寺です。↓



 砂丘の海岸端にはバイパスが通り現在はこれが国道八号線です。↓




 広大な砂丘地帯は、工場や住宅が並び昔の面影はありません。この砂丘、源義仲軍が京都へ上洛する際に集結した場所で越中の宮崎氏がここまでお迎えにきたと言われています。義仲の軍勢は直江津方面の平家の城氏を破った義仲軍団と現在の西回り塩の道を経由て今井に山城を築いた今井四郎兼平の軍団がありました。



 砂浜と南側地区の山林から得られる薪が豊富であった為、古くは揚浜式製塩が行われていた所です。太平洋戦争の終戦後の不況時代までは塩煮の釜が見られました。西回り塩の道を通ってこの当たりの塩が信州方面に送られたものと想像されます。


 田海に入ると直ぐにオッチャンラーメンの看板が目に付きます。ラーメンやブラック焼きそばでは評判の良いお店です。↓





 海岸近くには漁師の祠「恵比寿社」があり「おいべっさん」と称し古くは白土工場の敷地にありましたのをこの浜に移転したものです。↓






 田海の南側の高畑地区には昭和の中頃にデンカが化学コンビナートを建設しました。更に明星セメントができると石灰岩の採掘が黒姫山の東側でも始まり、採掘場から糸魚川の明星セメント工場まで長大なベルトコンベアが敷設されました。


 黒姫山を仰ぎ見る場所には山添神社があります。奴奈川姫命を祀る神社です。黒姫山に鎮座する奴奈川姫を遙拝する所であります。








 この山添社の境内には「君が為」の碑があります。この碑以前は八久保の砂丘の旧国道の近くにありましたが、昭和30年頃にここに移転されました。地元の出身の海軍水兵で、日清戦争の黄海の会戦で戦死した渡辺作治郎の碑です。当時の連合艦隊司令長官であった伊藤祐亭と同艦に搭乗していたこともあり、長官が戦後能登七尾港に視察の途中に立ち寄りの際に次の歌を残しました。

 「君が為捨てし命は萬代の鏡となりて国を照らさん」 古くは「勇敢なる水兵」という歌がありましたが、その当時のお話です。 

「煙も見えず雲も無く 風も起こらず波立たず 鏡のような黄海は 曇りはじめた時の間に・・・」佐々木信綱作詞があり主人公は九州男児の三浦寅次郎なのですが、うり二つのお話が渡辺作治郎にもあります。







 旧国道の南側にはお寺が並び、真宗寺院の宝光寺と西蓮寺があります。西蓮寺には親鸞聖人が姫川の渡船の際に船頭に与えられた船賃の名号(川越名号)が残っています。また松尾芭蕉や門弟の句を集めた句碑がありますが、判読するのが難しいほど風化していています。



西蓮寺入り口の碑 御旧跡 西蓮寺の碑↑と西蓮寺↓




 西蓮寺境内にある俳句の碑 「山遠水長」の碑で五人の句が書かれているのですが、かろうじて読めそうなのが芭蕉の句「あら海や佐渡に横たふ天の川」でほかに涼菟・支考・貞室・宗祇の句があるようです。



田海の坂を下ると布川と鉄砲川が合流するところがあります。奴奈川の地名に近い「布川」とか「ぬり川」などは高畑の上流から流れる田海川と並行して流れていて、奴奈川の里はここだともいえそうです。



 


 「奴奈川」と良く似ている名の「布川」↑は白土工場の西側の松の下で暗渠になる↓



奴奈川姫が居住していたとの伝説のある福来口(フクガクチ)の洞窟はこの奥にあり、布を洗ったり晒した川が布川だとの解釈もあります。



     大角地の跡↑この辺一帯

更に山添社の東側は「大角地」(おがくち)遺跡の出土した所で縄文の時代のヒスイ工房の跡もみられます。現在は新幹線の用地になっています。


このように田海地区には奴奈川姫伝説が密集している地区と言えます。