衆議院選挙の結果を見たとき、
私は強い違和感と、
言葉にしづらい気持ち悪さを覚えました。


それは、どの政党が勝ったかという話ではありません。

投票に向かうまでの空気、
そして結果を受け止める社会の方向性そのものに対する違和感でした。


なぜ、
私はここまで「気持ち悪い」と感じたのでしょうか。

その感覚は、
いったい何を知らせているのでしょうか。


数年前のことを、私は思い出しました。

タモリさんが、徹子の部屋で、
「来年は新しい戦前になるんじゃないか」という趣旨の発言をしていたことです。
たしか、3〜4年ほど前の放送でした。

そのとき、
この言葉を重く受け止めた人は、
決して多くはなかったと思います。


一部では話題になり、
「言い過ぎではないか」
「比喩が強すぎる」という受け止めもありました。


それでも、
「やっぱり日本社会は、
そちらの方向に向かっているのではないか」
と感じた人が、
少数ながら確かにいました。

私も、その一人だったように思います。


当時は、
それでもまだ「予感」でした。

危惧。
違和感。
兆し。

そうした曖昧な言葉でしか語れない段階でした。


しかし今回の衆議院選挙を経て、
私は思います。
これはもう予感ではない。

実際に、そちらの方向へ社会が動いている。

そう言わざるを得ない状況になったのではないでしょうか。


私が感じているのは、
思想が一斉に右に振れたという話ではありません。

異論を言いにくくなる空気が、
投票前からすでに広がっていたことです。

そして、
その空気の中で、
多くの人が「強い言葉」
「分かりやすい主張」に引き寄せられていった。

そこに、戦前と重なる危うさを感じています。


その象徴の一つが、
投票日直前のXのトレンドでした。

「ママ、戦争止めに行ってくる」
というハッシュタグが、トレンド1位になりました。

これは、
選挙結果を受けて生まれた反応ではありません。
投票という行為の直前に、
多くの人のタイムラインに現れた言葉です。


この事実は、非常に重いと思います。

なぜなら、何人かの人々はすでに
「何かがおかしい」
「このまま進んでいいのか」という不安を、
投票前から感じ取っていたということだからです。

しかもそれは、
正面からの政治的主張ではなく、
冗談や皮肉という形で表現されました。


本来、
戦争を止める責任を負うのは、
市井の「ママ」ではありません。

それでも、そう言わずにはいられない空気があった。

笑いに包まなければ、
直視できないほどの恐怖が、
すでに共有されていた。

私は、そう感じています。


有権者が一気に右傾化したとは、
私は考えていません。


問題は、選択肢の単純化です。

複雑な現実に対して、
「強い言葉」
「即効性のある答え」だけが前面に出ました。

制度や構造を語る声は、
投票行動に結びつく形では、
ほとんど見えませんでした。



この構図は、
戦前の新聞やラジオが作り出した空気とよく似ています。

メディアは中立を装いながら、
結果的に刺激の強い言葉だけを増幅させます。

何が語られ、何が語られなかったのか。
そこへの検証は、十分とは言えません。


さらに、
経済的不安も背景にあります。

生活が苦しい。
将来が見えない。

そうした状況では、
人は理屈よりも感情で判断しやすくなります。


その不安が、
構造ではなく、
分かりやすい対象へと向けられていく。

これは個人の問題ではありません。

長年、
政治が向き合ってこなかった結果だと私は考えています。


だからこそ、
「これが民意だから仕方ない」という言葉には、
強い違和感を覚えます。


民意は、
自然に湧き上がるものではありません。

投票前にどんな言葉が流通し、
どんな空気が作られていたのか。

そこを見ずに結果だけを語ることは、
思考を止める行為だと思います。


数年前に語られた「新しい戦前」という言葉。

当時は、
まだ遠い未来の警告のように聞こえました。

しかし今、私は思います。
これは、
まさに「新しい戦前」なのではないでしょうか。


「考えすぎだ」
「空気を読め」。


そう言われて、
この違和感を押し殺したとき、
初めて本当に戦前になります。

だから私は、
この気持ち悪さを大事にしたいと思っています。

違和感を言葉にすること。

それは、
今の社会で私たちに残された、
数少ない抵抗の形なのではないでしょうか。