SNSで、
ある政治家の過去の発言が拡散しています。
「子どもを一生懸命育て、良い教育を与え、そして時には国を守るために命を投げ出して」という趣旨の言葉です。
この一節に対して、
「子どもの命を国家のために差し出す思想ではないか」という批判が起きています。
一方で、
「比喩にすぎない」
「文脈を無視した切り取りだ」
という擁護の声もあります。
でも、私は思うんです。
この問題は、本当に「言い方」の問題なのでしょうか。
結論を先に言います。
この発言は、比喩だとしても、やはり危うい。
なぜなら、この言葉は、
これからどんな社会をつくろうとしているのか、
その方向性と結びついて聞こえてしまうからです。
まず、
歴史の話を避けて通れません。
日本では、
「子ども」
「命」
「国」
この三つの言葉が一文で結びつくとき、
多くの人が、戦時中の教育や価値観を思い出します。
国のために命を差し出すことが美徳とされ、
異論を唱えることが許されなかった時代です。
だからこそ、この言葉に、
反射的な拒否感を覚える人が多い。
それは感情論ではなく、
私たちが過去から学んできた記憶の反応だと思います。
次に、教育の話です。
教育って、本来何のためにあるのでしょうか。
国家のために人を使う準備でしょうか。
私は、違うと思っています。
教育は、
一人ひとりが自分の人生を生きるための土台です。
考える力。
選ぶ力。
そして、ときには「それには従えない」と言える力。
「国を守るために命を投げ出す」という前提を置いた瞬間、
教育は、人を守る営みではなくなります。
人を動かすための仕組みに、すり替わってしまう。
これは価値観の違いというより、
教育の役割を取り違えている状態だと思います。
そして、
ここで見過ごせないのが、
今高市政権が進めようとしているスパイ防止法の問題です。
この法律は、
国家にとって不都合と判断された行為や情報を、
広く「スパイ行為」とみなす可能性を含んでいます。
一番の問題は、
その線引きがとても曖昧なことです。
「戦争に反対」したらどうなるのか。
「軍事政策に疑問を呈」したらどうなるのか。
今は普通にできることなんですが、
もしそれが「国益を損なう行為」と判断されたら、
批判する側が処罰される余地が生まれます。
こんな自由な感想をブログにあげている私も処分されるかもしれません。
これは、決して大げさな想像ではありません。
かつての日本で、実際に起きたことです。
昔の治安維持法と同じです。
治安維持法は、
「国体を脅かす思想」を取り締まるという名目で作られました。
しかし現実には、
思想そのものではなく、
「疑われた」というだけで人を拘束できる法律でした。
共産党員は「赤」と呼ばれ、
多くの人が逮捕され、
長期間拘束され、
拷問を受け、
その中で命を落とした人も少なくありません。
その象徴的な一人が、
『蟹工船』の作者として知られる小林多喜二さんです。
小林多喜二さんは、
武器を取った人ではありません。
暴力を扇動した人でもありません。
労働者の過酷な現実を、
小説という形で描いた作家でした。
それでも彼は、
特高警察に拘束され、
激しい拷問を受け、
1933年、29歳で命を落としています。
しかも、
治安維持法の恐ろしさは、
「声を上げた人」だけが対象になったわけではない点にあります。
反戦を訴えていなくても、
はっきりした政治的主張がなくても、
集会に顔を出した。
本を読んでいた。
知り合いに左翼と呼ばれる人がいた。
それだけで、
「危険思想の可能性がある」と見なされ、
拘束された人が数多くいました。
これは、あとから分かった事実ではなく、
歴史資料として確認されている事実です。
つまり、
何を言ったかではなく、
どう疑われたかがすべてになる社会だった、
ということです。
ここで初めて、
「国を守るために命を投げ出せ」という言葉と、
スパイ防止法が、
一本の線でつながって見えてきます。
命を差し出す覚悟は求める。
その一方で、
疑問を持つ言葉は危険視する。
この組み合わせは、
かつての日本が実際にたどった道と、
あまりにもよく似ています。
命を差し出す覚悟を求めながら、
異論は封じる。
これは偶然の組み合わせではないと思います。
思想と制度が、
同じ方向を向いて進もうとしている。
そう感じる人がいるのも、無理はありません。
政治家の言葉は、
個人の感想では終わりません。
言葉は空気をつくり、
空気は、法律や制度を後押しします。
「覚悟」
「自己犠牲」
「国のため」
こうした言葉が当たり前になる社会では、
そのうち、
「従わない人は危ない」
「反対する人は敵かもしれない」
そんな発想が入り込んできます。
これは大げさな話ではなく、
歴史が何度も示してきた流れです。
切り取りではないか。
フェイクではないか。
そうした反論もあります。
でも、仮に文脈があったとしても、
この言葉が今の社会でどう受け取られているのか。
それを説明し、必要なら訂正する。
その責任は、発言した側にあります。
それを権力側がしないから
これを知っている人たちはSNSで声を上げ続けます。
こちらのオノさんのポストは、
一部は確かで一部は不確かだと思います。
マイナンバー(カード)が直接、徴兵に使われるという主張は、事実としては成立しません。
でも、国家が個人を「管理可能なデータ」に変えていく速度が速すぎる、という恐怖は理解できます。
ハンナ・アーレントは言いました。
「悪は、思考停止の中で平凡に実行される」と。
「マイナシステムがあるから危険」なのではありません。
「説明せず、議論させず、決まったと言い切る政治」が危険なのです。
そんな経緯を知らず、
めんどくさいからと疑わず思考を止めて、
安易にポイント欲しさに保険証などと紐付けしてしまう国民が大半。
それが残念な現実ですから。
マイナシステムへの政府の発想には
人を数として扱っているように私には思えます。
私は、自分の愛する息子たちを絶対に戦地になんて行かせない。

だから
だから、
声を上げられるうちは
このようなブログではありますが、
声を上げ続けたいと思っています。
ここで
もう一度こちらの動画を見てください。
最後に一瞬だけ
何か言葉が写っていますよね。
少し不気味な感じで‥
短すぎてわからないと思うので、スクショしました。

こちらです

これ、知らない人が多いかと思いますが、
2016年の国会質疑での当時の高市早苗総務大臣の実際の発言です。
衆議院の国会会議録(予算委・総務委)で公式に記録されています。
一次資料は国会図書館の会議録サイトで検索・閲覧可能です。
デマや憶測ではありません。
だから
この高市氏が最高権力を持った今、
テレビなどの大手メディアは、
完全に政府の広報となり、
不都合な情報は一切流されていないんです。
あの異常に高い支持率も作られたもの。
テレビが放送しないから、
みんな何も知らない。
そんな情報弱者たちが
何も知らないで、なんとな〜くの雰囲気
だけで「支持する」と答えてしまう。
以前の記事にも書きましたが、
クラウドワークスなどがお金を払ってTikTokなどでかなり世論誘導をしているようです。
若者の支持率が9割だとか
そういう報道もありました。
それに対して「危険だ」とポストしていた方へのネトウヨの攻撃があまりにも酷かったので、私は珍しく返信をリポストしました。
それとネット上などでの世論調査などでは、
ある一定の同じ思想を持ったネトウヨなどが大量に意見を送信したりもしています。
だから信用できない調査結果が出てしまうんです。
一方で、私は「比較的信頼できる」と感じてきた政党支持率調査があります。
それが、JRAによるオンライン世論調査です。
この調査の大きな特徴は、
同一IPアドレスからは一日に一度しか回答できない仕組みを採用している点です。
つまり、
特定の立場の人が意図的に何度も投票し、
数字を操作することが構造的に難しくなっています。
IPアドレスって何?

と思った方へ。
端末そのものや電波に付いた番号ではなく、
インターネット回線が外部と通信するときに使われる「通信上の住所」です。
同一IPアドレスから一日に一度しか回答できない仕組みは、
同じ回線からの連続投稿を防ぐという点で、
少なくとも恣意的な水増しを困難にします。
電話調査のように、
「そもそも電話に出る層が偏る」という問題もありません。
SNSアンケートのように、
「声の大きい人(ネトウヨ等)が何度も参加できてしまう」という仕組みとも異なります。
もちろん、この方式も万能ではありません。
しかし少なくとも、
恣意的な動員や水増しに対する耐性が比較的高い方式であることは確かです。
このJRAのオンラインアンケートは、
1998年8月28日から始まった内閣支持率調査として運用されています。
すなわち、2025年時点で約27年以上にわたって継続されてきた調査です。
実際、この調査では、
2025年12月下旬にかけて、
内閣支持率が一貫して下落する様子が確認されていました。
12月23日時点では、
有効投票数4,999票で、
支持率17.3%、
不支持率82.7%。
その後も数字は下がり続けます。
12月30日から31日にかけて表示されていた数値は、
支持率3.9%前後、
不支持率96%超。
過去一週間平均でも支持率は6〜7%台。
過去30日平均でも15%台にとどまっていました。
この時点での投票規模は、
1日あたりでも1,000票前後。
30日累計では7万票を超えていました。
つまりこれは、
「一部の人が一時的に騒いだ結果」
「偶然のブレ」
と片づけられるような数字ではありません。
一定期間、継続的に、
多数の回答者によって示された傾向でした。
ところが、
この調査は
2026年1月2日以降、突然アクセス不能
になります。
事前の告知はありませんでした。
停止理由の説明もありませんでした。
再開予定についての案内もありませんでした。
ここで、私ははっきり線を引いておきます。
政府が直接圧力をかけた、という証拠はありません。
この点を曖昧にしたまま語るつもりはありません。
しかし同時に、
政権にとって極めて厳しい数値が可視化され続けた直後に、
市民が参照できる調査が説明なく消えた。
この事実そのものは、
無視してよいものではないと思います。
言論や世論は、
露骨に封じられなくても、
「見えなくする」
「参照できなくする」
「比較できなくする」
ことで、十分に弱らせることができます。
民主主義は、
選挙の日だけで成り立つものではありません。
日常的に、
「今、どう評価されているのか」を測る物差しが、
複数、公開され、
誰でも確認できる状態であることが重要です。
その物差しの一本が、
説明のないまま静かに消えた。
私はこの出来事を、
陰謀論として断定したいのではありません。
しかし、
市民が現実を把握するための手がかりが一つ失われたとは、
確かに感じています。
だからこそ、
この調査停止は、
単なる「サイトトラブル」として流すのではなく、
民主主義の足腰がどこから弱っていくのかを考える材料として、
記録しておきたいのです。
最後に、これだけははっきり言いたい。
子どもの命は、国家の資源じゃない。
国の都合で使われるものでも、
試されるものでもありません。
政治が示すべき覚悟は、
「どんな立場の人でも、どんな意見の人でも、命と言葉を守る」
その一点だと思います。
この言葉を、
自分の子どもに向けて言えるでしょうか。
そして、
こんな空気の社会を、
その子に手渡したいでしょうか。
私は、そこを考え続けたいと思っています。