南朝 後村上天皇 賀名生行宮 | 倭は国のまほろば…残された憧憬を訪ねて…。

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【平成31年2月25日(月)】

 

【賀名生行宮】 正平3年(1348年)~ 正平9年(1354年) 所在地:奈良県五條市西吉野町賀名生1

第97代後村上天皇 在位:延元4年/暦応2年(1339)~正平23年/応安元年(1368)

 

賀名生行宮(あのうのあんぐう/あのうあんぐう)とは、大和国吉野郡(現在の奈良県五條市西吉野村賀名生)にあった南朝行宮

賀名生は元は「穴生」と書かれ、後醍醐天皇が京都を脱出して吉野に逃れる際に穴生を経由したことが知られている。正平3年/貞和4年(1348年)8月、高師直率いる室町幕府軍に吉野行宮を襲われた後村上天皇賀名生に逃れて行宮を定める。正平7年(1352年)の正平一統による北朝の一時崩壊を受けて、後村上天皇は同年2月京都を目指して出立するが、京都に入京することが出来ないまま5月に捕虜とした北朝の3人の上皇(光厳光明崇光)と廃太子直仁親王)を連行して賀名生に戻った。

その後、正平9年/文和3年(1354年)10月に河内国の金剛寺に行宮を移している。

その後長慶天皇後亀山天皇期にも、南朝の行宮が置かれていたことが知られ、正平15年/延文3年(1360年)には南朝内部の内紛から火災にあって焼失したことが知られている。

行宮の位置については、賀名生の和田地区にある堀家の敷地に設けられたと伝えられているが、他にも様々な異説が存在しており確定には至っていない。

 

皇居跡とされる堀家住宅は改修中でした。

 

向かいは賀名生の里 歴史民俗資料館

後村上天皇 檜尾陵

 

【平成31年3月8日追記】

栄山寺行宮に行くついでに前回撮り忘れた皇居址石碑を掲げておきます。

石碑は北畠親房公墳墓手前にありました。

 

北畠親房公墳墓

鳥居と五輪塔、これぞ神仏習合