第97代(南朝第2代) 後村上天皇 檜尾陵 | 倭は国のまほろば…残された憧憬を訪ねて…。

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【平成29年6月1日(木)参拝】

 

河内長野の観心寺。ここには、前述の廉子伝承墓、そして息子の後村上陵があります。

               

 

               

                                        金堂(国宝)

 

               

                                        建掛塔(重文)

 

               

 

               

 

後村上(ごむらかみ)天皇陵 御陵名:檜尾陵 陵形:円丘  所在地:大阪府河内長野市寺元観心寺内

 

崩御後の3月15日に当所で火葬され、間もなく天皇のための法華三昧堂(現存せず)も建立された。天授4年/永和4年(1378年)に観心寺を参詣した賢耀の『観心寺参詣諸堂巡礼記』によれば、墓所の東に法華三昧堂、その前に勾当内侍の五輪塔があったと伝える。同寺は天皇の御在所でもあったが故、古来御陵を崇敬しており、近世の地誌類も当所を御陵として挙げている。なお、同境内にコウボ坂陵墓参考地、境外に檜尾塚陵墓参考地が所在し、ともに母・阿野廉子の墓と伝えられている。

 

               

 

               

 

               

結構、長い石段。

 

               

数えたら220段程ありました。

 

               

ここも後醍醐陵同様、寺院内なのに鳥居がありました。

 

               

 

               

 

後村上天皇(ごむらかみてんのう)は、南北朝時代第97代天皇にして、南朝の第2代天皇(在位:延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日) - 正平23年/応安元年3月11日(1368年3月29日))。

後醍醐天皇の第七皇子。母は、阿野公廉の女・廉子(新待賢門院)。

諱は初め義良(のりよし / のりなが)、後に憲良に改めた。名前の読みが二種類あることについては、後醍醐天皇の皇子の名の読みを参照。父・後醍醐天皇の遺志を継いで南朝の京都回復を図り、大和(奈良県)の吉野・賀名生、摂津(大阪府)の住吉などを行宮とした。

明治44年(1911年)に南朝が正統とされたため、歴代天皇として認定されるようになった。

 

元弘3年/正慶2年(1333年)鎌倉幕府が滅亡し、父の後醍醐天皇建武の新政を始めると、幼い義良は北条氏の残党の討伐と東国武士の帰属を目的に北畠親房顕家父子に奉じられて奥州多賀城へと向かう。建武元年(1334年)5月多賀城において親王となる。翌2年(1335年)足利尊氏が新政から離反すると、北畠親子とともに尊氏討伐のために京へ引き返す。建武3年(1336年)3月行在所比叡山において元服を行い、同時に三品陸奥太守に叙任され、尊氏が京で敗れて九州落ちすると再び奥州へ赴いた。延元2年/建武4年(1337年)多賀城が襲撃されて危険となり、霊山に難を避けたが、8月に再度上洛を始める。12月に鎌倉を攻略し、延元3年/暦応元年(1338年)1月さらに西上して美濃国青野原の戦いで足利方を破って、伊勢・伊賀方面に転進した後、父天皇のいる大和の吉野行宮に入った。父天皇が全国の南朝勢力を結集するため各地に自らの皇子を派遣する中、9月に義良親王も宗良親王とともに北畠親房・顕信に奉じられて、伊勢国大湊から三たび奥州を目指すものの、途中暴風に遭って一行は離散し、親王の船は伊勢に漂着。翌延元4年/暦応2年(1339年)3月吉野へ戻り、間もなく皇太子となった。8月15日に父天皇譲位を受けて践祚する。

天皇は若年ながら主に畿内近国の寺社や武士に対して精力的に綸旨を発し、南朝の安寧祈願や所領安堵・給付、軍勢催促や褒賞を行った。正平3年/貞和4年(1348年)1月足利方の高師直に吉野を襲撃され、天皇は紀伊花園(和歌山県かつらぎ町)へ一旦難を避けたが、後に大和賀名生奈良県五條市)へ移った。正平5年/観応元年(1350年)足利一族間の内訌が激化すると(観応の擾乱)、先に足利直義が南朝に降伏し、翌年(1351年)10月には尊氏が同じく南朝に降伏した(正平一統)。天皇は尊氏に対して直義・直冬追討の綸旨を与え、11月には北朝崇光天皇廃位するとともに三種の神器後醍醐天皇は偽器と主張していた)を接収した。

南朝は、尊氏が直義を追討すべく関東に向かった隙を突いて、京を回復する作戦に出る。正平7年/文和元年(1352年)2月に賀名生を発し、河内東条(大阪府富田林市)を経て摂津住吉(大阪市住吉区)に至り、閏2月19日山城男山(京都府八幡市)に入り、七条大宮の戦い楠木正儀足利義詮を破って京の回復に成功した。一統は破綻して義詮は近江に逃亡し、天皇は光厳光明崇光の三上皇と皇太子の直仁親王を男山に連行した。3月に足利方の反撃に遭って京を放棄し、男山に立て籠もるが、5月義詮の軍に敗れて辛うじて脱出、三輪社・宇陀を経て、賀名生に帰還する。正平9年/文和3年(1354年)10月河内天野に移り、金剛寺を行宮と定める。正平10年/文和4年(1355年)1月、再び南朝に帰順した直冬を立てて京の回復を目指すが、尊氏・義詮の軍に敗れて頓挫した。

正平14年/延文4年(1359年)12月観心寺(大阪府河内長野市)に移り、翌年9月には住吉まで北上。正平16年/康安元年(1361年)幕府の政争に敗れて失脚した執事細川清氏の帰順を受け、12月8日四条隆俊・楠木正儀らが京へ攻め込み、一時的に京を回復するが、すぐに義詮軍の反撃に遭って、同月26日には撤退している。南朝の力は既に弱体化しており、退勢を挽回するまでには至らなかった。それでも南朝はなお強硬姿勢を貫いたと見え、正平22年/貞治6年(1367年)4月に勅使葉室光資をして幕府との和睦交渉が行われたものの、天皇は武家側の降伏を条件に要求したため、義詮の怒りを買った末に和議は決裂している。この年にはもう病気がちであったらしく、翌正平23年/応安元年(1368年)3月11日子刻に住吉大社宮司津守氏住之江殿にて崩御した。享年41。

【系譜】

女御:源氏 - 北畠親房女(名を顕子とし、中宮に冊立されたという異伝もある)

女御藤原勝子?(嘉喜門院・三位局) - 実父不詳、二条師基猶子

 ・第一皇子:寛成親王(長慶天皇、1343-1394)

 ・第二皇子:熙成親王(後亀山天皇、1350?-1424)

 

(参考文献: 2017年4月24日付ウィキ抜粋)

 

観心寺の山門くぐってすぐ右手にある「後村上天皇御旧跡」(旧総持院跡)

               

 

 

 

というわけで、一旦、南朝4代まで辿り、そのあと北朝を辿ることにします。

 

 

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