信貴山城 | 倭は国のまほろば…残された憧憬を訪ねて…。

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【平成30年4月14日(土)】

 

昨日は、地元平群の信貴山城を探索してきました。 信貴山と云えば、有名なのは朝護孫子寺ですが、信貴山城も中世城郭としては名だたる山城の一つです。特に松永久秀が平蜘蛛茶釜を抱いて爆死したとされる信貴山城の戦いは大河ドラマにも出てくる歴史的事柄です。

このあたりが松永屋敷跡と云われているが、広い曲輪かな以外は、ぱっと見全然判らない…。

 

雄嶽山頂にある空鉢護法堂からみた絶景

松永もこの絶景を天守からみたのだろう!

築城者については楠木正成とする説がありますが、この頃は城というより小さな砦のようなものと考えられており、本格的な築城は1536年(天文5年)河内畠山氏の重臣で当時家中の実権を握りつつあった木沢長政が行いましたが、同11年3月に三好・細川氏らとの戦いで戦死、信貴山城も炎上し、落城しています。

その後、1559年(永禄2年)に三好氏の重臣、松永久秀が築城して入り、南都に築いた多聞城とともに、大和支配の拠点として利用しました。

信貴山城は基本的に土で造られた城郭で、最高所の雄嶽山頂には小規模ながら天守(高櫓:たかやぐら)が建てられていたと考えられています。

1577年(天正5年)、久秀は織田信長に背いて城に立て籠り、織田勢の大軍に包囲されます。最期を悟った久秀は、かねてから信長の望んでいた名物茶器・平蜘蛛茶釜を粉々に砕いたのち自害し、松永氏は滅亡しました。城はこの後再築されることなく、久秀の死とともに廃城となっています。(信貴山城パンフより)