第120代 仁孝天皇 後月輪陵 | 倭は国のまほろば…残された憧憬を訪ねて…。

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3年半かけて天皇陵、皇后陵を歴代順に廻りました。
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【平成29年11月22日(水)参拝】

 

そしてここ月輪陵(後月輪陵)も今回、14回目にしてファイナルを迎えました。

今回は仁孝帝、繋子皇后、祺子皇太后、新待賢門院雅子の参拝となります。

 

仁孝(にんこう)天皇陵 御陵名:後月輪陵 陵形:九重塔  所在地:京都市東山区今熊野泉山町泉涌寺

               

 

               

 

               

 

               

 

仁孝天皇(にんこうてんのう、寛政12年2月21日(1800年3月16日) - 弘化3年1月26日(1846年2月21日))は、第120代天皇(在位:文化14年9月21日(1817年10月31日) - 弘化3年1月26日(1846年2月21日))。諱は恵仁(あやひと)。幼称は寛宮(ゆたのみや)。

光格天皇の第四皇子。養母は後桃園天皇の第一皇女、光格中宮欣子内親王(新清和院)。実母は勧修寺大納言経逸の女、藤原婧子(東京極院)。正妃は関白鷹司政煕の女、藤原繋子(新皇嘉門院)、繋子没後はその妹、藤原祺子(新朔平門院)。

文化6年(1809年)3月24日、父帝の中宮欣子内親王(新清和院)の養子として立太子された。

文化14年(1817年)に即位し、父光格上皇の意をうけて朝儀復興に尽力した。皇族や公家の子弟のための教育機関の設置を志し、武家伝奏徳大寺実堅に幕府との折衝を命じた。幕府の了承を得てその構想が現実のものとなった矢先、崩御した。宝算47歳であった。

崩御の翌年にあたる弘化4年(1847年)、天皇の遺志によって御所の建春門外に公家講学の所として学習所が設立され、孝明天皇から下賜された勅額により「学習院」(京都学習院)と名乗るようになった。1877年(明治10年)明治天皇の命によって設立された皇族・華族教育機関の学習院(現・学校法人学習院および学習院大学)の前身である。

【系譜】

贈皇后鷹司繋子(新皇嘉門院)(1798-1823) - 鷹司政煕

女御鷹司祺子(新朔平門院)(1811-1847) - 鷹司政煕女、繋子妹

典侍正親町雅子(新待賢門院)(1803-1856) - 正親町実光

 ・第四皇子:統仁親王(孝明天皇)(1831-1866)

典侍甘露寺妍子(1806-1851) - 甘露寺国長

典侍橋本経子(1826-1865) - 橋本実久

典侍中山績子(1795-1875) - 中山愛親

掌侍今城(1809-1875) - 今城定成

典侍勧修寺徳子(1788-1878)-権大納言勧修寺経逸の娘

 

(参考文献:2017年9月22日付ウィキ参照)