後桃園天皇女御 尊称皇太后 近衛維子 月輪陵 | 倭は国のまほろば…残された憧憬を訪ねて…。

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【平成29年11月12日(日)参拝】

 

引き続き月輪陵。

後桃園天皇女御 近衛維子 月輪陵 所在地:京都市東山区今熊野泉山町泉涌寺

 

               

 

               

 

近衛 維子(このえ これこ、宝暦9年12月9日(1760年1月26日) - 天明3年10月12日(1783年11月6日))は、後桃園天皇女御。関白太政大臣近衛内前の娘。弟に右大臣近衛経熙がいる。

明和5年(1769年)11月、皇太子英仁親王(のちの後桃園天皇)と結婚。明和7年(1770年)、英仁親王即位に伴い、安永元年(1772年)12月に女御宣下を受ける。

安永8年(1779年)1月に第一皇女・欣子内親王を出産し、同年6月には准三后に叙される。しかし、同年11月に後桃園天皇崩御。天皇には欣子内親王以外に子女がなかったため、急遽傍系の閑院宮典仁親王の第六王子・祐宮(のちの光格天皇)を維子養子とし、皇位を継承させることとなった。

安永10年(1781年)3月、皇太后となり、名実ともに嫡母として新帝を補佐する立場に置かれるが、それから間もなく、天明3年10月12日(1783年11月6日)に崩御。享年24。同日、女院号を宣下され、盛化門院(せいかもんいん)と称される。陵墓は京都府京都市東山区の月輪陵

 

(参考文献:2017年6月20日ウィキ参照)