第118代 後桃園天皇 月輪陵 | 倭は国のまほろば…残された憧憬を訪ねて…。

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【平成29年11月12日(日)参拝】

 

引き続き月輪陵。

後桃園(ごももぞの)天皇陵 御陵名:月輪陵 陵形:九重塔  所在地:京都市東山区今熊野泉山町泉涌寺

               

 

               

 

後桃園天皇(ごももぞのてんのう、宝暦8年7月2日(1758年8月5日) - 安永8年10月29日(1779年12月6日))は、江戸時代の第118代天皇(在位:明和7年4月28日(1770年5月23日) - 安永8年11月9日(1779年12月16日))。諱は英仁(ひでひと)。

なお、急逝による後継の準備のため、実際よりも後の日付で崩御が発表されており、在位日が崩御後も続いている(宮内庁所蔵「後桃園院御凶事前後記」)。

桃園天皇の第一皇子。母は関白太政大臣一条兼香(かねか)の娘で桃園女御の恭礼門院・藤原富子。同母弟に伏見宮貞行親王がいる。

明和5年2月19日(1768年4月6日)に立太子。皇太子が今上天皇の子でないのは熙成親王長慶天皇の弟、のちの後亀山天皇)以来400年ぶりで2017年現在最後の例。今上天皇の甥が皇太子になったのは益仁親王光明天皇の甥、のちの崇光天皇)以来430年ぶり。明和7年(1770年)伯母後桜町天皇譲位を受けて即位

病気がちであり、安永8年(1779年)に在位のまま22歳で崩御

子が欣子内親王のみであったので、急遽閑院宮家より養子を迎え(閑院宮師仁親王、即位後は兼仁に改名)、光格天皇として即位させた。欣子内親王はのちに光格天皇中宮となり、6年後の寛政12年1月22日(1800年2月15日)、第三皇子温仁親王を出産するも、夭折。その後、文化13年1月28日(1816年2月25日)に再び第七皇子悦仁親王を出産するが、こちらも文政4年2月11日(1821年3月14日)に6歳で夭折し、これにより中御門天皇からの皇統は完全に途絶えてしまうこととなった

 (参考文献:2017年9月24日付ウィキ参照)