第98代(南朝第3代) 長慶天皇 嵯峨東陵 | 倭は国のまほろば…残された憧憬を訪ねて…。

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【平成29年6月9日(金)参拝】

 

最寄りは、京福電鉄「嵐電嵯峨」駅。 そこから南西すぐの処に御陵はあります。

               

 

               

 

               

 

長慶(ちょうけい)天皇陵 御陵名:嵯峨東陵 陵形:円丘  所在地:京都市右京区嵯峨天竜寺角倉町

 

               

 

               

 

               

鳥居の奥に菊の御紋の扉がある

 

               

 

               

 

    街中にある御陵ではかなり大きい。

 

天皇の晩年の動向を伝える史料がないため、宮内省(当時)が近畿各地の寺社旧家や有力な伝説地などの調査を行ったが、陵墓関係の資料は発見に至らなかった。しかし、皇子などの近親者が晩年は地方を引き上げて入洛していることから、天皇も晩年は入洛したことが推定される。また、別称の慶寿院は皇子の海門承朝相国寺30世)が止住した天竜寺塔頭慶寿院に因むものであるから、天皇は晩年を当院で過ごし(当時天皇はその在所によって呼ばれた)、崩後はその供養所であったと思われる。したがって、慶寿院の跡地が天皇にとって最も由緒深い所と考えられた。臨時陵墓調査委員会(昭和10年 - 昭和19年、1935年 - 1944年)で審議の結果、桓武天皇安徳天皇など埋葬地以外に陵が治定されている「擬陵」の前例を踏まえ、昭和16年(1941年)慶寿院跡を整備してひとまず陵墓参考地に指定したが、その後の調査でも葬地はなお判明せず、同19年(1944年)2月11日(旧紀元節)現陵号を定めて、同時に陵域内に海門承朝(承朝王)の墓も治定された。

一方、慶寿院は海門承朝が父天皇の崩後にその菩提を弔うために創建したもので、生前の居所ではないとする見解もある。例えば、村田正志は承朝が応永14年(1407年)に亡き父院を「長慶院」と称した書状が存在している事実を指摘して、慶寿院の創建を書状が作成された後の応永年間後期と推定し、また、天皇の晩年の在所は慶寿院ではなく、長慶院という名称の塔頭であったとして、これが追号「長慶院」の由来であると考えた。さらに、村田は仮説と前置きした上で、長慶院の所在を南朝庇護の禅寺である和泉大雄寺(「浜寺」の異名を持つ。中世末期に廃絶)に比定している。その他、長慶天皇の御陵と称する墳墓は全国各地に点在しており、20箇所以上に及ぶとも言われている。

 

長慶天皇(ちょうけいてんのう)は、南北朝時代第98代天皇にして、南朝第3代天皇(在位:正平23年/応安元年(1368年) 3月- 弘和3年/永徳3年(1383年)冬)。諱は寛成(ゆたなり)。

後村上天皇の第一皇子で、母は二条師基猶子嘉喜門院(三位局)である。

南朝関係史料の少なさから、近世以来諸家の間で天皇の在位・非在位をめぐる議論があり、明治44年(1911年)3月に明治天皇南朝を正統とする勅裁を下した際も在位認定されないままであったが、大正時代に入って、八代国治武田祐吉の実証的研究が決定的な在位説として評価される。これを受けて宮内省の調査が行われ、大正15年(1926年)10月21日に皇統加列についての詔書発布があり、ここにようやく長慶天皇の在位の事実が公認されるに至った。

生い立ちは不明な点が多く、親王宣下の後に陸奥太守に任じられたらしいが、立太子に関しては確証を得ない。

正平23年/応安元年(1368年)3月 、26歳にして摂津の住吉行宮(大阪市住吉区)で践祚し、間もなく弟の熙成親王東宮とした。

南朝は北畠親房らの重鎮を失って弱体化が著しく、天皇の事績に関しても明らかでないことが多い。また、天皇は北朝に対して強硬派の人物であったと考えられ、先代まで何度となく持ち上がった和睦交渉がこの代に入ってから全く途絶したことも、史料の少なさと無関係ではなかろう。

践祚後間もなく和平派の楠木正儀が北朝へ降ったため、同年(1368年)12月吉野(奈良県吉野町)に後退し、正平24年/応安2年(1369年)4月には河内天野の金剛寺(大阪府河内長野市)に移った。

しかし、文中2年/応安6年(1373年)8月に正儀らの先導で細川氏春赤松光範の軍から総攻撃を受けて、四条隆俊ら70人余りが討ち取られたため、再び吉野へ還幸することとなった。

文中3年/応安7年(1374年)冬、伯父の宗良親王が信濃から吉野入りし、以後は歌合が盛んに催されている。

天授5年/康暦元年(1379年)9月までには大和栄山寺(奈良県五條市)に移り、弘和元年/永徳元年(1381年)10月に宗良親王の私撰和歌集を准勅撰集とした(『新葉和歌集』)。また同年、『源氏物語』の注釈書である『仙源抄』を著している。

譲位の時期は判然としないが、朝要分の免除に関して利生護国寺に下した弘和3年(1383年)10月27日付の綸旨が在位を確認できる最後の史料と目され、この後程なく弟の東宮(後亀山天皇)に譲位したと考えられている。譲位に至った背景には、弘和2年/永徳2年(1382年)閏1月に正儀が南朝に帰参したことを受けて和平派が台頭し、その勢力によって穏健な後亀山を擁立する動きがあったとみられる。

譲位後2年程は院政を敷いていた証拠があり、元中2年/至徳2年(1385年)9月「太上天皇寛成」の名で高野山丹生社に宸筆願文を納めたが、翌元中3年/至徳3年(1386年)4月に二見越後守宛に下した院宣を最後に史料の上から姿を消している。その後は落飾して金剛理(覚理とも)と号し、禅宗に帰依した模様である。

元中9年/明徳3年(1392年)閏10月、南北朝合一が成った際にも後亀山天皇に同行して京都に入った形跡は見られない。『大乗院日記目録』によると、応永元年(1394年)8月1日に崩御享年52。晩年の地については、吉野に留まったとする説の他、紀伊玉川里(和歌山県九度山町)とする説、和泉大雄寺塔頭の長慶院(大阪府高石市)とする説(後述)、あるいは京都に還幸したとみて、天竜寺塔頭慶寿院(京都市右京区)とする説など諸説がある。

若年から和歌に優れ、天授元年(1375年)の『五百番歌合』、同2年(1376年)の『千首和歌』(322首が現存)がある他、『新葉和歌集』に「御製」として53首が入集している。その歌風は平明で、大覚寺統伝統の二条派に属する。著作には先述の『仙源抄』がある他、『孟子集註』・『雲州往来』・『台記』などの研究も行った。

なお、天皇は譲位後に南朝勢の協力を求めて、各地を潜幸したという伝説があり、全国に御陵伝説地が点在する。南部煎餅の祖とする伝承もある。

 

天皇の在位・非在位の議論は近世初期からあり、議論は明治に持ち越され、正統史学者はおよそ在位説であったが、一部は非在位説を論じた。大正に入って、八代国治の発表した一連の研究が有力な在位論として評価され(後に『長慶天皇御即位の研究』として刊行)、また同時期に武田祐吉によって発見された『耕雲千首』古写本の奥書から「仙洞並当今」、すなわち上皇と天皇が元中6年(1389年)に並存していたことが明らかとなり、後村上天皇崩後のこの時期に仙洞の資格があるのは長慶上皇しか存在しないとして八代の見解を補強した。これら新出史料を駆使した研究成果は従来の在位説をより確定的なものとし、その後の宮内省による調査を経て、大正15年(1926年)10月21日皇統加列の詔書が発布され、長慶天皇は正式に第98代天皇として公認された。

(参考文献:2017年5月12日付ウィキ抜粋)

 

海門承朝】 

長慶天皇皇子の海門承朝墓が同域内奥にあります。

               

 

海門承朝(かいもんじょうちょう、文中3年/応安7年(1374年)以前 - 嘉吉3年5月9日(1443年6月6日))は、南北朝時代から室町時代にかけての南朝の皇族・禅僧。長慶天皇の皇子だが、母は不詳である。諱(俗名)は憲明。道号は海門、法諱は承朝伊川百拙翁とも号した。相国寺30世・南禅寺133世。

(参考文献:2017年4月28日付ウィキ抜粋)

 

前述のとおり、現長慶天皇陵は擬陵であるため、全国に伝承陵が伝わっています。

なので次は、せめて近畿圏の伝承陵だけでも行ってみようかなと思っています。

 

長慶天皇南帝陵   長慶天皇陵(野迫川村弓手原)

 

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