後嵯峨天皇 火葬塚 | 倭は国のまほろば…残された憧憬を訪ねて…。

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3年半かけて天皇陵、皇后陵を歴代順に廻りました。
1年半かけて宮(皇居)を歴代順に廻りました。
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【平成29年4月4日(火)参拝】

 

後嵯峨陵参拝のあとは、火葬塚が近くにあるので寄って来ました。

 

後嵯峨天皇火葬塚  所在地:京都市右京区嵯峨亀ノ尾町(嵐山公園亀山地区内)

 

渡月橋北詰を川沿いに西に行き嵐山公園亀山地区方面へ

               

                                       途中に小督塚発見。(小督局稿で追記

 

               

 

               

案内図横の階段を登っていきます。                 津崎村岡局銅像前を左折するとすぐ

 

               

 

               

                                        後伏見帝は後嵯峨帝の曾孫にあたる

 

               

 

 

後嵯峨天皇は文永9年(1272年)2月19日、薬草院で火葬され、翌日、遺骨を銀の壺に納めて浄金剛院に安置し、文永11年(1274年)、法華堂の落慶のとき同堂に移し納めた。中世、山陵の所在が不明に帰した。『元禄諸陵周垣成就記』は陵の所在は「金原法華堂」として火葬冢を「嵯峨二尊院裏山」という。松崎祐之『歴史徴』は天龍寺内方丈西北の古墳という。蒲生君平『山陵志』は亀山天皇と合葬で故浄金剛院の法華堂とする。『山陵私記』はのちの火葬所を陵に擬する。『陵墓一隅抄』は初めて、天龍寺方丈北雲居庵の四辺と、のちの陵の位置を指摘する。後伏見天皇および亀山天皇とともに、火葬所は天龍寺裏山にある。 (参考文献:2016年11月11日ウィキ抜粋)