土御門天皇 火葬塚 | 倭は国のまほろば…残された憧憬を訪ねて…。

倭は国のまほろば…残された憧憬を訪ねて…。

3年半かけて天皇陵、皇后陵を歴代順に廻りました。
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【平成29年3月25日(土)参拝】

 

今冬の寒さに感けてずっと出不精になっていましたが、ここんとこ、ようやく春めいてきましたので、巡礼を再開いたします。

 

再開第一段は、鳴門までのプチ遠征。

土御門天皇治定陵は京都の長岡京にありますが、火葬塚は京からは遠く四国の鳴門にあります。

 

高速バスで鳴門まで行き、そこからは、JR鳴門線で阿波大谷駅へ。

阿波大谷駅からは西に500m行った県道12号線沿いの阿波神社に隣接しています。

               

 

この阿波神社土御門天皇を御祭神としており、火葬塚は阿波池谷村陵とよばれています。

               

左奥にみえる鳥居が火葬塚

 

               

 

土御門天皇火葬塚 所在地:徳島県鳴門市大麻町池ノ谷 阿波神社

 

               

 

               

                                     結構立派な塚で周濠に水も張ってあります。

 

土御門天皇は承元四年(1210)に在位13年で順徳天皇譲位しました。

承久三年(1221)の承久の乱に関与しなかったものの父後鳥羽上皇が隠岐、弟の順徳天皇が佐渡へ配流され、土御門上皇もこのまま都に留まるのは忍びないと自ら土佐に移りましたが、「都に返せないまでもせめて都に近いところへ」と鎌倉幕府の配慮で翌年阿波に移りました。

その後、寛喜三年(1231)10月、御年37歳で崩御され、阿波で火葬に付されたあと京都の金ヶ原に葬られました。(ウィキ抜粋)

 

阿波神社

土御門天皇承久の乱後、承久3年(1221年)に土佐国へ遷幸、貞応2年(1223年)にはさらに阿波国に移り、約9年後の寛喜3年(1231年)に崩御し、その行在所は守護所に近い勝瑞(藍住町)に比定する説がある。人々は土御門天皇火葬塚の北に通称「天皇さん」と呼ぶ土御門天皇社を奉祀、『阿波志』には「土御門天皇廟 池谷村天皇山南麓に在り」とみえる。その後、明治8年(1875年)に丸山神社と改称(鳴門市史上)。

昭和15年(1940年)には紀元二千六百年記念行事として、社名を阿波神社に改め、火葬塚の北東に隣接する現在地に新たに社殿を造営した。県民挙げての奉賛と勤労祀仕によって昭和18年(1943年)に竣工し、本殿座祭を斎行、県社に列した。(ウィキ抜粋)

               

 

               

                                        神門

 

 

               

                                        拝殿