宇多天皇女御 醍醐天皇生母 贈皇太后 藤原胤子 小野陵 | 倭は国のまほろば…残された憧憬を訪ねて…。

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3年半かけて天皇陵、皇后陵を歴代順に廻りました。
1年半かけて宮(皇居)を歴代順に廻りました。
普段は奈良を中心に周りで起こった他愛のない出来事を綴っていきます。
ペナントレース中は甲子園球場に出没しています!
奈良まほろば検定 奈良通1級合格。

【平成28年6月3日(金)参拝】

最寄駅は京都地下鉄東西線「小野」駅。そこからは西に約1.8km程行った名神高速道路沿い北側に位置しています。

贈皇太后 藤原胤子 小野陵 陵形:円丘  
所在地:京都府京都市山科区勧修寺北大日町







                       100m近い真っ直ぐな参道の向こうには微かに鳥居が確認できる。











藤原胤子(ふじわら の いんし/たねこ、生年不詳 - 寛平8年6月30日(896年8月12日))は、内大臣藤原高藤(藤原北家冬嗣の孫)女。母は宮道列子。第59代宇多天皇女御、第60代醍醐天皇・敦慶親王・敦固親王・柔子内親王・敦実親王生母。同母兄弟に大納言右大将藤原定国・右大臣藤原定方。

元慶8年(884年)頃、光孝天皇の第七皇子源定省と結婚。同9年(885年)、長男維城(のち敦仁と改名)を産む。仁和3年(887年)、夫定省が皇族に復帰し即位する(宇多天皇)。同4年(888年)更衣となり、禁色を赦される。寛平4年(892年)1月、従四位下に叙され女御の宣旨を受ける。同年4月、敦仁親王が立太子。同8年(896年)に逝去。同9年、醍醐天皇の即位により皇太后追贈された。

『今昔物語』によれば、父高藤が山科へ鷹狩に出かけた際雨宿りをした宇治郡司宮道弥益の家で、弥益の娘列子を見初め一夜の契りでもうけたのが胤子である。宇多天皇との間に四男一女をもうけながらも早世したが、所生の醍醐天皇即位したことによって高藤は内大臣にまで昇進、胤子の兄弟定方も右大臣となり、同家は以後北家勧修寺流と称されることになった。(参考文献:ウィキ抜粋)

小野陵の他、小野駅近辺には60代醍醐天皇陵61代朱雀天皇陵がありスラスラっと廻れそうなんですが、この後は、藤原温子宇治陵に向かいます…。



【宇多天皇第八皇子 敦実親王 宇治陵】 【平成28年6月3日(金)参拝】


敦実親王(あつざねしんのう、寛平5年(893年) - 康保4年3月2日(967年4月14日))は、平安時代中期の皇族。宇多天皇の第八皇子。母は贈皇太后・藤原胤子で、醍醐天皇の同母弟。官位は一品・式部卿。六条宮を称した。