第59代 宇多天皇 大内山陵 | 倭は国のまほろば…残された憧憬を訪ねて…。

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【平成28年6月1日(水)参拝】

福王子神社から先ほど通ってきた道を戻り宇多天皇陵を目指します。

再び仁和寺西門を通過。


宇多天皇陵参道


御室陵墓参考地を通り過ぎ、舗装道路に出て5分位でこの長い石段が現れます。


そしてこの石段を登ると…こんどは手書きの参道案内。


これ参道なんですか? 道とも言い難い……宮内庁さん何とかしてください…。




手書標から5、6分でようやく御陵到着です。



                                        ここも丁寧で綺麗な字体です。

宇多(うだ)天皇陵  御陵名:大内山陵  陵形:方丘 所在地:京都府京都市右京区御室住吉山町
火葬後、拾骨のことがないまま土を覆って陵とされた。所在は早く失われ、江戸時代末になって現在の大内山陵に治定された。


こういうふうに御陵を見下ろせるのって他には欽明天皇陵ぐらいですかね?







宇多天皇(うだてんのう、貞観9年5月5日(867年6月10日) - 承平元年7月19日(931年9月3日))は、日本の第59代天皇(在位:仁和3年8月26日(887年9月17日) - 寛平9年7月3日(897年8月4日))。 諱は定省(さだみ)。後の佐々木氏などに代表される宇多源氏の祖先にもあたる。

光孝天皇の第七皇子であり、母は桓武天皇の皇子仲野親王の娘・皇太后班子女王。父光孝天皇は即位後に関白藤原基経の外孫であり、陽成天皇の弟であった貞保親王をはばかり、元慶8年(884年)6月に26人の皇子皇女を臣籍降下させて源氏とした。定省王もその一人であり、源定省(みなもと の さだみ)と称した。
仁和3年(887年)には光孝天皇が重態に陥ったが、後継を指名しなかった。実力者の基経は天皇の内意が定省にあるとして、朝議を一決した。定省は8月25日に皇族に復帰して親王宣下を受け、翌26日に皇太子に立てられた。定省は基経の異母妹である尚侍藤原淑子の猶子であり、後宮に強い影響力を持っていた淑子は定省後継を熱心に推薦した。しかし基経自身は特に定省を気に入っていたわけではなかった[3]。立太子したその日のうちに光孝天皇が崩じたため践祚し、11月17日に即位した。

宇多は寛平9年7月3日(897年8月4日)に突然皇太子敦仁親王を元服させ、即日譲位した(醍醐天皇)。この宇多の突然の譲位は、かつては仏道に専心するためと考えるのが主流だったが、近年では藤原氏からの政治的自由を確保するためこれを行った、あるいは前の皇統に連なる皇族から皇位継承の要求が出る前に実子に譲位して己の皇統の正統性を示したなどとも考られている(後述の『大鏡』にある陽成上皇の言がその暗示と考えられている)。譲位にあたって書かれた『寛平御遺誡』には右大臣源能有の死に強い衝撃を受けたことが書かれており、これを譲位と結びつける見方もある。

新たに即位した醍醐には自らの同母妹・為子内親王を正妃に立て、藤原北家嫡流が外戚となることを防ごうとした。また譲位直前の除目で菅原道真を権大納言に任じ、大納言で太政官最上席だった時平の次席としたうえで、時平と道真の双方に内覧を命じ、朝政を二人で牽引するよう命じた。しかしこの人事は権門の公家には不評で、公卿が職務を拒むという事件に発展した。道真は宇多に願ってかかる公卿らに出仕を命じてもらい、ようやく新政がスタートした。
宇多は譲位後も道真の後ろ盾となり、時平の独走を防ごうとしていたが、一方で仏道に熱中し始めた。昌泰2年(899年)10月24日には出家し、東寺で受戒した後、仁和寺に入って法皇となった。さらに比叡山や熊野三山にしばしば参詣し、道真の援助を十分に行えなくなった。

陽成上皇との関係は微妙だった。宇多は皇位に即く前に陽成に仕えており、神社行幸の際には舞を命じられたこともあった。『大鏡』には、陽成宇多のことを、「あれはかつて私に仕えていた者ではないか」と言ったという逸話が残っているが、陽成が復位を画策しているという風説は宇多を悩ませた。

保延年間に書かれた『長秋記』(保延元年6月7日条)によれば、陽成上皇宇多天皇の内裏に勝手に押し入ろうとしたために、上皇といえども勅許なく内裏に入る事は罷りならないとこれを退けたが、後に昌泰の変が起きた際には醍醐天皇に菅原道真の左遷を止めさせようとして内裏に入ろうとした宇多上皇自身がこの先例を盾にそれを阻まれたという記載がある。

【系譜】
女御(皇太夫人):藤原温子(872-907) - 藤原基経女
 ・均子内親王(890-910) - 敦慶親王妃
女御(贈皇太后):藤原胤子(?-896) - 藤原高藤女
 ・敦仁親王(醍醐天皇)(885-930)

宇多天皇の若年時からの妻は藤原胤子橘義子などで、宇多天皇が臣籍降下し源氏となっていた頃に生まれた、第一皇子・敦仁親王(のちの醍醐天皇)・第二皇子斉中親王・第三皇子斉世親王は生誕時は源氏であった。

女御藤原温子は関白藤原基経の女で、宇多天皇即位後に入内した。女御藤原胤子が病没後、皇太子敦仁親王の養母となり、醍醐天皇即位に伴い、皇太夫人となる。晩年は東七条宮(亭子院)に住んだため、東七条后、七条后とも呼ばれた。

橘義子所生の斉世親王は、菅原道真の女を妻としたことから、後年菅原道真の誣告に際してその名が取り沙汰された。また女御菅原衍子は道真の女である。

宇多天皇の孫は、ほとんどが源氏の姓を賜り、臣籍降下した。 宇多天皇から出た源氏を宇多源氏といい、敦実親王から出た系列が最も栄えた。敦実親王の子・源雅信は左大臣を務め、その娘・倫子は藤原道長の正室となり、一条天皇中宮彰子や関白頼通の母となった。朝廷貴族としての地位を維持した子孫としては、公家の庭田家や綾小路家(ともに羽林家)などがあり、また雅信から近江に土着した武家の佐々木氏が出ている。(参考文献:ウィキ抜粋)