仁明天皇女御 光孝天皇生母 贈皇太后 藤原沢子 中尾陵 | 倭は国のまほろば…残された憧憬を訪ねて…。

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3年半かけて天皇陵、皇后陵を歴代順に廻りました。
1年半かけて宮(皇居)を歴代順に廻りました。
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奈良まほろば検定 奈良通1級合格。

【平成28年4月3日(日)参拝】

仁明陵のあとは、JR「東福寺」迄移動。ここから北東800mの住宅地のド真ん中に中尾陵はあります。


贈皇太后藤原沢子陵  御陵名:中尾陵 陵形:円丘 所在地:京都府京都市東山区今熊野宝蔵町




                                        鳥居が真横向いてる…。


またまた正面向いてない陵墓…。何で宮内庁はこういう設計にするんだろうか…?

藤原 沢子(ふじわら の たくし、生年不詳 - 承和6年6月30日(839年8月12日))は、藤原総継と藤原数子の娘で仁明天皇女御光孝天皇生母。姉妹の乙春は藤原長良室となり、基経および高子を産む。

仁明天皇即位前からので、夫が即位すると天長10年(833年)に女御になった。仁明天皇の寵愛は深く、天長5年(828年)に宗康親王、天長7年(830年)に時康親王(後の光孝天皇)、天長8年(831年)に人康親王を出産した。また新子内親王をもうけている。従四位下。承和6年(839年)4月、宮中でにわかに病となり、危篤となり車で里第に運ばれるも、そのまま6月30日に薨去。同年、従三位を追贈された。

元慶8年(884年)に所生の時康親王が光孝天皇として即位すると、同年に皇太后を追贈された。(参考文献:ウィキ抜粋)

【人康親王墓】 所在地:京都府京都市山科区四ノ宮泉水町

沢子陵のあと山科に移動。順子陵の前に人康親王墓に立ち寄って来ました。

山科駅から京阪線沿いに東に500m行くと六角堂の徳林庵があり、此処を北進。


どん詰まりを右に行くとすぐに親王墓発見。














人康親王(さねやすしんのう、天長8年(831年) - 貞観14年5月5日(872年6月14日))は、平安時代前期の皇族。仁明天皇の第四皇子。母は贈皇太后・藤原沢子(贈正一位太政大臣・藤原総継の娘)。光孝天皇の同母弟。官位は四品・弾正尹。

承和12年(845年)元服。承和15年(848年)四品に叙せられ、翌嘉祥2年(849年)上総太守に任ぜられる。のち文徳朝では仁寿2年(852年)弾正尹に転任し、斉衡4年(857年)常陸太守を兼ねる。
清和朝に入ると、貞観元年(859年)に病気を理由に出家して、法性と号した(最終官位は四品守弾正尹兼行常陸太守)。少年の頃より大乗道に帰依したいとの意志を持っていたという。出家後は諸羽山の麓、現在の京都府京都市山科区四ノ宮に山荘を造営して隠棲し、山科宮と称した。この山荘は川を走らせ滝を造るなど趣深く造られていたという。なお、四ノ宮の地名も親王が仁明天皇の第四皇子であった事に因むとする説がある。
貞観6年(864年)人康親王家が朝廷より借用していた、絹130疋・綿300屯・調布400端・銭3300貫文の返済が勅により免除されている。貞観14年(872年)5月5日薨去。享年42。

当道の祖
当道において、親王は琵琶の名手で、隠棲理由の病気は両目を患った事を意味するとされる。江戸時代には座頭・琵琶法師等の祖とされた。当時検校の位にある琵琶法師が毎年当地に集まり琵琶を演奏し親王の霊を慰めた。(参考文献:ウィキ抜粋)