第50代 桓武天皇 柏原陵 | 倭は国のまほろば…残された憧憬を訪ねて…。

倭は国のまほろば…残された憧憬を訪ねて…。

3年半かけて天皇陵、皇后陵を歴代順に廻りました。
1年半かけて宮(皇居)を歴代順に廻りました。
普段は奈良を中心に周りで起こった他愛のない出来事を綴っていきます。
ペナントレース中は甲子園球場に出没しています!
奈良まほろば検定 奈良通1級合格。

【平成27年12月19日(土)参拝】

ここまで約1年4ヶ月かかってようやく第50代桓武天皇陵に辿り着きました…。

「794(鳴くよ)鶯、平安京」で有名な天皇だけに御陵も大きく立派です!


桓武(かんむ)天皇陵  御陵名:柏原陵  陵形:円丘
所在地:京都府京都市伏見区桃山町永井久太郎

最寄駅は丹波橋駅。丹波橋駅からは北東に5分ほどで参道入口に到着。


参道入口から約250mの長い参道を歩くと拝所の入口に到着。

                                    中央奥にそびえているのは伏見桃山城です。



ここの制札はしっかりした楷書で綺麗な字体です。


広い拝所。


                                          道(筋)がくっきり。




桓武天皇は、日本の第50代天皇(在位:天応元年4月3日(781年4月30日) - 延暦25年3月17日(806年4月9日))。
白壁王(のちの光仁天皇)の第1王子として天平9年(737年)に産まれた。生母は百済系渡来人氏族の和氏の出身である高野新笠。当初は皇族としてではなく官僚としての出世が望まれて大学頭や侍従に任じられた(光仁天皇即位以前は山部王と称された)。
父王の即位後は親王宣下とともに四品が授けられ、後に中務卿に任じられたものの、生母の出自が低かったため立太子は予想されていなかった。しかし、藤原氏などを巻き込んだ政争により皇后井上内親王他戸親王が相次いで突如廃されたために、翌4年1月2日(773年1月29日)に皇太子とされた。その影には式家の藤原百川による擁立があったとされる。
天応元年4月3日(781年4月30日)には光仁天皇から譲位されて天皇に卽き、翌日の5月1日には早くも同母弟の早良親王を皇太子とした。同月15日(5月12日)に即位の詔を宣した。延暦2年4月18日(783年5月23日)に、藤原乙牟漏を皇后とした。皇后との間に、安殿親王(のちの平城天皇)と神野親王(のちの嵯峨天皇)を儲けた。また、夫人藤原旅子との間には大伴親王(のちの淳和天皇)がいる。
延暦4年(785年)9月頃には、皇太子早良親王を藤原種継暗殺の廉により廃太子の上で流罪に処し、親王が抗議のための絶食で配流中に薨去するという事件が起こった。これを受け、同年11月25日(785年12月31日)に安殿親王を皇太子とした。
在位中の延暦25年3月17日(806年4月9日)に崩御。宝算70。
【治世】
平城京における肥大化した奈良仏教各寺の影響力を厭い、また天武天皇流が断絶し天智天皇流に皇統が戻ったこともあって、当時、秦氏が開拓していたものの、ほとんど未開の山城国への遷都を行う。初め延暦3年(784年)に長岡京を造営するが、天災や後述する近親者の不幸・祟りが起こり、その原因を天皇の徳がなく天子の資格がない事にあると民衆に判断されるのを恐れて、僅か10年後の同13年(794年)気学における四神相応の土地相より長岡京から艮方位(東北)に当たる場所の平安京へ改めて遷都した。また蝦夷を服属させ東北地方を平定するため、坂上田村麻呂を征夷大将軍とする軍を送った。しかし晩年には、平安京の造作と東北への軍事遠征とがともに百姓を苦しめているとの藤原緒嗣(百川の長子)の建言を容れて、いずれも中断している(緒嗣と菅野真道との所謂徳政相論)。また、健児制を導入した事で百姓らの兵役の負担は解消されたが、この制度も間もなく機能しなくなり、やがて国衙軍制の成立を見ることになり、さらに後の武士の発生に繋がっていく。
【系譜】
皇后:藤原乙牟漏(760-790) - 藤原良継女
 皇子:安殿親王(平城天皇)(774-824)
 皇子:神野親王(嵯峨天皇)(786-842)
 皇子:高志内親王(789-809) - 大伴親王妃淳和天皇贈皇后
夫人(贈皇太后):藤原旅子(759-788)- 藤原百川女
 皇子:大伴親王(淳和天皇)(786-840)

【大亀谷陵墓参考地】  所在地:京都府京都市伏見区深草大亀谷古御香町

現、桓武陵から東に約1.5kmの地点にある「大亀谷陵墓参考地」も、桓武天皇を被葬候補者に想定されている。


ここの駒札の文字はほとんど見えなかった…。宮内庁の方、新調望む!


柏原陵の在所は中世の動乱期において不明となり、さらに豊臣秀吉の築いた伏見城の敷地内に入ってしまったため、深草・伏見の間とのみ知られていた。元禄年間の修陵で深草鞍ヶ谷町浄蓮華院境内の谷口古墳が考定され、その後幕末に改めて京都市伏見区桃山町の現陵の場所に定められた。尤もその根拠は乏しいと見られ、別に桃山丘陵の頂き付近に真陵の位置を求める説もあるため、確かな場所は不明とするほかない。

【桓武天皇皇子 伊豫親王 巨幡墓】
大亀谷陵墓参考地から南東約1.2kmの地点に桓武天皇第三皇子の伊豫親王墓があります。

伊予親王(いよしんのう、延暦2年(783年)? - 大同2年11月12日(807年12月14日))は、平安時代初期の皇族。桓武天皇の第三皇子(異説あり)。官位は三品・中務卿、贈一品。
大同元年(806年)中務卿兼大宰帥に任ぜられる。しかし、翌大同2年(807年)反逆の首謀者であるとして母・藤原吉子とともに川原寺(弘福寺)に幽閉され、絶食した後毒を飲んで自害した。異母兄平城天皇の側近であった藤原式家・藤原仲成に操られた藤原宗成に失脚させられたものとされる(伊予親王の変)。
後に親王の無実が判明し、承和6年(839年)に一品が追贈された。




(参考文献:ウィキ参照)








このペースだと、124代迄は、未だあと2年はかかりそうです…ww。