第47代 淳仁天皇 淡路陵 | 倭は国のまほろば…残された憧憬を訪ねて…。

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3年半かけて天皇陵、皇后陵を歴代順に廻りました。
1年半かけて宮(皇居)を歴代順に廻りました。
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【平成27年9月27日(日)参拝】

淳仁(じゅんにん)天皇陵  御陵名:淡路陵  陵形:山形  所在地:兵庫県南あわじ市賀集

母親である当麻夫人墓から北に約1kmの処に淳仁天皇陵があります。





                                           ここの制札も新調を望みます!





淳仁天皇(じゅんにんてんのう)は、日本の第47代天皇(在位:758年9月7日 - 764年11月6日)。古文書では廃帝(はいたい)または淡路廃帝(あわじはいたい)と呼ばれる。諱は大炊(おおい)であり、践祚前は大炊王(おおいおう)と称された。
天武天皇の皇子・舎人親王の七男として誕生する。母は当麻老の娘・当麻山背。だが、3歳で父が没したこともあって、天皇の孫でありながら官位を受けることもなく、存在が注目されることもなかったが、757年4月26日、光明皇后を後ろ盾にもつ藤原仲麻呂の強い推挙により大炊王立太子した。
大炊王は仲麻呂の長男で故人の真従の未亡人である粟田諸姉を妻に迎え、また仲麻呂の私邸に住むなど、仲麻呂と深く結びついていた。
天平宝字2年(758年)に孝謙天皇から譲位を受け践祚した。同時に孝謙天皇は、太上天皇孝謙上皇)となった。
しかし践祚後も政治の実権はほとんど仲麻呂が握り、一族は恵美の二字を付け加えられるとともに仲麻呂は押勝を名乗り、専横が目立つようになる。また官位も唐風の名称に改めたり、鋳銭と出挙の権利や私印を用いる許可も与えた。天平宝字4年(760年)、仲麻呂を皇室外では初の太政大臣に任じた。同年、光明皇太后薨去するが、仲麻呂は天皇と上皇を盾に平城宮の改築を実施し、翌天平宝字5年(761年)天皇と上皇は小治田宮や保良宮に行幸して保良宮を「北宮」とした。
ところが、保良宮滞在中に病みがちとなった孝謙上皇を看病していた弓削道鏡を寵愛するようになり、仲麻呂の進言により天皇は孝謙上皇にこれを諫めたところ上皇は烈火のごとく激怒し、天皇は上皇と対立するようになっていく。762年6月28日、孝謙上皇は再び天皇大権を掌握することを目的に、「今の帝は常の祀りと小事を行え、国家の大事と賞罰は朕が行う」と宣告した。この宣告によって、政治権力が孝謙上皇のもとに移ったとする見解と、御璽を保持しつづけていた淳仁天皇が依然と権能を発揮していたとする見解があり、まだ研究者間でも確定されていない。
764年、上皇との対立を契機に恵美押勝の乱が発生、天皇はこれに加担しなかったものの、仲麻呂の乱が失敗に終り淳仁天皇は最大の後見人を失った。
乱の翌月、上皇の軍によって居住していた中宮院を包囲され、そこで上皇より「仲麻呂と関係が深かったこと」を理由に廃位を宣告され、5日後の764年11月11日、親王の待遇をもって淡路国に流される。淳仁天皇廃位、太上天皇は追号されず、上皇は重祚して称徳天皇となった。だが、淡路の先帝のもとに通う官人らも多くおり、また都でも先帝の復帰(重祚)をはかる勢力が残っていた。このような政治動向に危機感をもった称徳天皇は、翌765年に現地の国守である佐伯助らに警戒の強化を命じた。この年の10月、廃帝は逃亡を図るが捕まり、翌日に院中で亡くなった。公式には病死と伝えられているが、実際には殺害されたと推定され、葬礼が行われたことを示す記録も存在していない。敵対した称徳天皇の意向により長らく天皇の一人と認められず、廃帝または淡路廃帝と呼ばれていた。
明治3年7月24日(1870年8月20日)に、弘文天皇(大友皇子)・仲恭天皇と共に明治天皇から「淳仁天皇」と諡号を賜られた。(参考文献:ウィキ抜粋)


右奥の丸い小山が当麻夫人墓です。

このあとは、淡路島の中で色々な淳仁天皇の伝承があるので廻ってみます。