第30代 敏達天皇 河内磯長中尾陵 欽明天皇皇后 石姫皇女 磯長原陵 | 倭は国のまほろば…残された憧憬を訪ねて…。

倭は国のまほろば…残された憧憬を訪ねて…。

3年半かけて天皇陵、皇后陵を歴代順に廻りました。
1年半かけて宮(皇居)を歴代順に廻りました。
普段は奈良を中心に周りで起こった他愛のない出来事を綴っていきます。
ペナントレース中は甲子園球場に出没しています!
奈良まほろば検定 奈良通1級合格。

【平成27年3月7日(土)参拝】

「橿原神宮前」からは近鉄南大阪線で「上ノ太子」まで約30分。
いわゆる「王陵の谷」と呼ばれているこの地に初めて訪れました。


梅越しの二上山。

               途中、聖徳太子御廟がある叡福寺が右手に見える。(ここもまた来ないと…)

歩くことたっぷり30分、ようやく敏達陵に到着しました。

敏達(びだつ)天皇陵  御陵名:河内磯長中尾陵  陵形:前方後円  考古学名:太子西山古墳
所在地:大阪府南河内郡太子町大字太子



短い上り坂から、高い木々に挟まれた長い参道。この光景はまるで彦主人王墓を彷彿させます。





                                           ここは母子の合葬。


ここの制札も真新しいくて気持ちいい。








敏達天皇は、第30代天皇。(在位期間:572年4月30日~585年9月14日)は、欽明天皇の第二皇子。母親は宣化天皇の皇女・皇后石姫皇女。和風諡号は渟中倉太珠敷尊(ぬなくらのふとたましきのみこと。『古事記』では沼名倉太珠敷命)。別名、他田天皇。
【系譜】
皇后(前):広姫(ひろひめ、息長真手王の女) 敏達4年(575年)薨去
皇子:押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ、麻呂子皇子)
皇后(後):額田部皇女(ぬかたべのひめみこ、後の推古天皇
【即位】
父方・母方の双方からそれぞれ継体天皇・仁賢天皇・雄略天皇の血を引いている。
同母兄・箭田珠勝大兄皇子が552年4月に薨去したことを受け、554年2月24日に皇太子となる。異母の兄弟姉妹としては、用明天皇・推古天皇・桜井皇子(吉備姫王の父)・穴穂部間人皇女(用明天皇の皇后・聖徳太子の母)・崇峻天皇らがいる。571年5月24日に欽明天皇が崩御したことを受け、572年4月30日即位。
575年2月4日に息長真手王の女、広姫を皇后としたが、同年11月に崩御。翌同576年4月23日、16歳年下と言われる異母妹の額田部皇女を改めて皇后に立てた。尚、571年に額田部皇女を既に妃としており、何故皇女であるにもかかわらずそうでない広姫が当初皇后となったのかは不明。
なお、敏達天皇にも亡くなった年齢に差違があるという諸説があり、次の代の用明天皇と同様、正確な没年齢は不明であるが、『皇代記』等の示す48歳説が現時点で有力ではある。

【石姫皇女】

石姫皇女(いしひめのひめみこ、生没年不詳)は、欽明天皇皇后。『古事記』には石比売命(いしひめのみこと)とある。父は宣化天皇、母は橘仲皇女(仁賢天皇の皇女)。敏達天皇の母。同母妹の小石姫皇女(記のみ)・倉稚綾姫皇女・日影皇女(以上紀のみ)と共に欽明天皇の妃となった。欽明天皇元年1月15日(540年2月8日)に欽明天皇の皇后に立てられた。敏達天皇元年4月3日(572年4月30日)、息子敏達天皇の即位と同日に皇太后に立てられた。

(参考文献:ウィキ抜粋)

敏達陵近くからみた二上山。

                                 太子・和みの広場のネコヤナギが春を感じさせる。

結局、雨は巡礼中はほとんど降らず、帰り上ノ太子駅に着いたぐらいから降り出して間一髪でした。

本来なら2回に分けて廻るパターンを今回は1回で廻りきる…。歩数も26,337歩で疲れました。