第26代 継体天皇 三嶋藍野陵 | 倭は国のまほろば…残された憧憬を訪ねて…。

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3年半かけて天皇陵、皇后陵を歴代順に廻りました。
1年半かけて宮(皇居)を歴代順に廻りました。
普段は奈良を中心に周りで起こった他愛のない出来事を綴っていきます。
ペナントレース中は甲子園球場に出没しています!
奈良まほろば検定 奈良通1級合格。

【平成27年2月10日(火)参拝】

今日は検診の為、休暇を頂戴してまして、検診終了後に継体陵まで足を運んできました。
最寄駅はJR東海道線「摂津富田」駅。そこからは北西に徒歩約30分。




継体(けいたい)天皇陵  御陵名:三嶋藍野陵  陵形:前方後円  考古学名:太田茶臼山古墳(墳丘長227m)
所在地:大阪府茨木市太田3丁目







住宅街のど真ん中にあるのにこの静寂感たるや…。

空の青、木々の緑、玉砂利の白の3つのコントラストが抜群!







御陵の周りには陪塚がいっぱいあるようです。2つ発見!





継体天皇は第26代天皇。在位:(507年3月3日 - 531年3月10日)。
『日本書紀』によれば応神天皇5世の孫(曾孫の孫)で父は彦主人王、母は垂仁天皇7世孫の振媛(ふりひめ)である。ただし、応神から継体に至る中間4代の系譜について『記紀』では省略されており、辛うじて鎌倉時代の『釈日本紀』に引用された『上宮記』逸文という史料によって知ることが出来る。これによると、男子の直系は「凡牟都和希王(ほむたわけのおおきみ・応神天皇) ─ 若野毛二俣王 ─ 大郎子(一名意富富等王) ─ 乎非王 ─ 汙斯王(=彦主人王) ─ 乎富等大公王(=継体天皇)」とされる。『上宮記』逸文は近年、黛弘道の研究によって推古朝の遺文である可能性も指摘され、その内容の信憑性や実際の血統については前述の通り議論が分かれているものの原帝紀の編纂(欽明朝か)と同じ頃に系譜伝承が成立したものと思われる。
【系譜】
皇后:手白香皇女(たしらかのひめみこ。仁賢天皇の皇女)
皇子:天国排開広庭尊(あめくにおしはらきひろにわのみこと。欽明天皇

妃:目子媛(めのこひめ。尾張連草香の女)
皇子:勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ。安閑天皇
皇子:檜隈高田皇子(ひのくまのたかたのみこ。宣化天皇
【皇居】※『日本書紀』に拠る。
507年2月、樟葉宮(くすばのみや、大阪府枚方市楠葉丘の交野天神社付近が伝承地)で即位。
511年10月、筒城宮(つつきのみや、現在の京都府京田辺市多々羅都谷か)に遷す。
518年3月、弟国宮(おとくにのみや、現在の京都府長岡京市今里付近か)に遷す。
526年9月、磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや、現在の奈良県桜井市池之内か)に遷す。

上叙の遷都は政治上の重大な変革があったためとする説もあるが、憶測の域を出ない。ただし、この記録が事実とすると、継体が大和にいたのは最後の5年のみである。

戦後、現皇室は継体天皇を初代として樹立されたとする新王朝論が盛んになった。それ以前のヤマト王権との血縁関係については現在も議論が続いている。
諱はヲホド。『日本書紀』では男大迹王(をほどのおおきみ)、『古事記』では袁本杼命(をほどのみこと)と記される。また、『筑後国風土記』逸文に「雄大迹天皇(をほどのすめらみこと)」、『上宮記』逸文に乎富等大公王(をほどのおおきみ)とある。(参考文献:ウィキ抜粋)
【治定】
『日本書紀』では、継体天皇25年(531年)2月に磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)で崩御したとあり、同じ年の12月に藍野陵に葬られたという。『古事記』は三島の藍の御陵としている。藍原の地形は、継体天皇が没した当時は原野であったであろう。『延喜式』には、摂津国島上郡にあると書いているが、これは平安時代前期の陵墓掌握であって、それが必ずしも真陵であるかどうかは別である(太田茶臼山古墳がある茨木市は島下郡にあたり、後述の今城塚古墳のある高槻市は島上郡にあたる)。
江戸時代中期に継体天皇陵に比定されたが、文献史学の立場からは、延喜式記載の所在地と異なるという問題点が早くに指摘されていた。さらに、出土埴輪の特徴は、5世紀中頃のものと考えられているもので、考古学的にも527年 (古事記) ~ 534年 (日本書紀或本云) に没した継体天皇の陵では在り得ないという意見が研究者の大勢を占める。これに対し、東へ1.5キロ程の所に所在する今城塚古墳は、所在地および考古学的に推定される築造年代が文献に記される継体天皇陵としての条件に合致する上、当該期の古墳の中では隔絶した規模を持っており、こちらこそが真の継体天皇陵と考えられている。

なお、現在知られている当古墳出土埴輪の殆どは大阪府高槻市に所在する新池遺跡で製作されたものである事が明らかとなっている。     (参考文献:ウィキ抜粋)


この後は真陵と言われる今城塚古墳に行きます。
・・・じゃあここの被葬者は一体誰なんでしょうか?