第25代 武烈天皇 傍丘磐坏丘北陵 | 倭は国のまほろば…残された憧憬を訪ねて…。

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3年半かけて天皇陵、皇后陵を歴代順に廻りました。
1年半かけて宮(皇居)を歴代順に廻りました。
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奈良まほろば検定 奈良通1級合格。

【平成27年2月1日(日)参拝】

今日も昨日同様に極寒の中、武烈陵まで行って来ました。

最寄駅はJR和歌山線「志都美」駅。(駅舎が意外と近代的!)


武烈(ぶれつ)天皇陵  御陵名:傍丘磐坏丘北陵 陵形:山形 所在地:奈良県香芝市今泉
現陵は「古墳として造営されたものではなく、単なる自然丘」という見解が学会における一般的な見方で、陵そのものの実在を疑う意見もある。

志都美駅からほぼ真っ直ぐ西に5~6分位行くと長~い参道が見えてきました。



参道から1段上がって制札、そしてもう1段上がって拝所がある。なんかカッコいい。










こちらの石標は以前も紹介した香芝駅前にある。

武烈天皇は第25代天皇(在位:498年 - 506年)。 名は小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさざきのみこと)・小泊瀬稚鷦鷯天皇(-のすめらみこと、以上『日本書紀』)、小長谷若雀命(『古事記』)。
【系譜】
父は仁賢天皇、母は雄略天皇の皇女・春日大娘皇女。同母姉妹に、手白香皇女(継体天皇の皇后・欽明天皇の母)・橘仲皇女(宣化天皇の皇后)らがいる。
皇后:春日娘子(かすがのいらつめ) - 『古事記』に見えず。 皇子女なし 『日本書紀』に「男女無くして継嗣絶ゆべし」、『古事記』にも「日続知らすべき王無かりき」とある。
【皇居】
都は泊瀬列城宮(はつせのなみきのみや)。奈良県桜井市出雲の十二柱神社に「武烈天皇泊瀬列城宮跡」の石碑がある。『古事記』では「長谷之列木宮」と記す。
【略歴】
仁賢天皇7年正月に立太子する。同11年8月に仁賢天皇が崩御した後、大臣の平群真鳥が国政をほしいままにした。大伴金村などは、それを苦々しく思っていた。
皇太子は、物部麁鹿火の娘影媛(かげひめ)との婚約を試みるが、影媛は既に真鳥大臣の子平群鮪(へぐりのしび)と通じていた。海柘榴市(つばいち、現桜井市)の歌垣において鮪との歌合戦に敗れた太子は怒り、大伴金村をして鮪を乃楽山(ならやま、現奈良市)に誅殺させ、11月には真鳥大臣をも討伐させた。そののち同年12月に即位して、泊瀬列城に都を定め、大伴金村を大連とした。
なお、日本書紀は、武烈天皇の異常な行為を記しているが、これら悪逆非道の記述は、『古事記』には一切見られない。この相違の背景には、血縁関係が薄い次代の継体天皇の即位を正当化する意図が『書紀』側にあり、武烈天皇を暴君に仕立てたとする説が一般的である。事実『古事記』には、暴君としての記述はなく、太子がいなかったことと天皇の崩後に袁本杼命(おおどのみこと、後の継体天皇)が皇位継承者として招かれたことしか記述されていない。  (参考文献:ウィキ抜粋)

武烈天皇に継嗣が無いことからこれで仁徳天皇の血統も10代で途絶えることになるのである…。

【大塚陵墓参考地】
被葬候補者:第25代武烈天皇 考古学名:新山古墳。 所在地:奈良県北葛城郡広陵町大塚

最寄駅は近鉄大阪線「築山」駅。ここは以前も来た「磐園陵墓参考地」や「陵西陵墓参考地」がある馬見古墳群です。全長約126m、後方部幅67m、高さ約10m、前方部幅約66mほどの前方後方墳である。

現治定陵が自然丘であるならば、こちらの方が「三角縁神獣鏡」も出てる事を考えると真陵の可能性がありますね。










帰り道、JR「五位堂」駅からみた二上山。(昨日大阪側から見たのと左右逆になっている。)

次は継体天皇なんですが、やはりその前に、ここは滋賀まで足を延ばさないといけないな…。



【平成29年1月10日追記】

「奈良まほろばソムリエ検定公式テキストブック」の「狐井城山古墳」の解説欄に「武烈陵とする説あり」と書かれていたのを発見し行ってきました。 狐井城山古墳