今回の参詣は豊島区高松~千川~要町の4社を巡ります。

まずは高松の柳稲荷神社へ。ここは地下鉄「要町駅」から北に700メートルぐらいのところ。

高松というと聞きなれないですが、池袋の西側、エリア的には要町(かなめちょう)で、周囲はのどかな住宅街です。

 

 

 

 

高松柳稲荷神社

もとは近隣農家の屋敷神として祀られていたお稲荷さんといいます。地域の守り神が居なかったことから、大正九年(1920)に高松の鎮守として造営され長く親しまれています。

後ほど掲載しますが、御由緒としては珍しく往時の神社とそこに集う人々の様子までつぶさに記されていて、共生する町の情景が目に浮かびます。

 

 

 

 

手水舎

剥落が激しいのですべては読めませんが側壁に「紀元 二千五百三 明治」と見えます。明治の下に「八」の払いの部分とおぼしき刻印が見られることから、明治八年(皇紀2535年/西暦1875年)の奉納品かもしれません。時代的には銀座に煉瓦街ができたり、御用菓子商の風月堂がビスケットを発売したころ。

 

 

 

 

狐像

右が阿形で子抱き、左が吽形で宝珠を抱える。

 

 

 

 

御由緒

境内掲示より字体などそのまま記載

高松稲荷神社は、もと地元農家の屋敷稲荷でしたが、高松に共同で祀る神社がなかったことから、この地に移し、高松の鎮守としました。

当神社は大正九年(一九二〇)に地元の旧家一〇名と近隣者の協力、寄付により建造されました。その記念碑が境内に建っています。

高松(当時は北豊島郡長崎村字前高松・字高松)の鎮守となって以来、八〇坪強の境内には広葉常緑の高木が生い茂り、近隣住民から「お稲荷さん」として親しまれ、信仰を集めてきました。なお境内角にある地蔵尊は、延享四年(一七四七)ここより東側の板橋との境近くに造立されてあったものです。

昭和初期の高松は、畑七割、野原三割で構成され、約三千坪の藤畑や約四千五百坪の桐畑が広がる、のどかな近郊農村でした。夏は神社周辺で油蝉やヒグラシ、ツクツクボウシが終日鳴き交わし、高松小学校(高松二-五七)の北西から出た湧き水は、小川となって流れ、イモリやメダカが生息し、川岸には草花が咲き乱れ、大根や蔬菜類を洗う共同の洗い場が各所に点在していました。その周辺では銀ヤンマが飛び交い、子供たちはトンボ捕りの後に、冷たい湧き水で喉を潤したといいます。

その後の高松は閑静な住宅街として発展しましたが、当神社では現在、正月の初詣、一月第二日曜日の賽の神(ドンド焼き)、二月初めの初午などの行事が行われています。また九月第二土曜日・日曜日の祭礼には、山車と神輿が町内を練り歩き、高松地域の人々の心のよりどころとなっています。

 

 

 

写真はすべて、2020.1.13 撮影

 

備考

社号 柳稲荷神社

別名 高松稲荷神社

創建 大正9年(1920)以前

祭神 

祭日 1月第二日曜日ドンド焼き 2月初午

    9月第二土曜日・日曜日祭礼

末社 

社務所 

所在地 東京都豊島区高松2-30-1

その他