平将門魔法陣の画像

平将門魔法陣

ビジネス街の中でも一等地の大手町には、かつて関東一円で武芸に優れながらも、世に受け入れられず悲劇的な死を迎えた平将門の首を埋めたとされる塚があります。塚に関しては、史実や不思議な伝説が相まってか、21世紀の現代でさえ忌んで憚られながらも「最恐心霊スポット」なる都市伝説としてしばしば注目を集めているようです。

その都市伝説に挙げられるのは、将門にゆかりのある神社を線で結ぶと、将門が信奉していた妙見菩薩を象徴する北斗七星が現れるというもので、格好のオカルトネタになっている。

 

 ゆかりの寺社

 7つの社のリスト

 魔法陣だったのか

 将門信仰

といった形で作ってみました。

2021.8.20、一部の文章の修正と画像を追加しました。

 

 

 

ゆかりの寺社

たしかに将門にゆかりがあるとされる神社を線で繋げると、見事に綺麗な北斗七星のレイラインが江戸城の頭上に浮かびあがります。しかしながら、それらの神社の御由緒と伝承の類を調べてみると、必ずしも祭神としての将門に対して好意的な由来ではない。というか7分の4社が将門討伐を成し遂げた藤原秀郷が関わっているないし将門と関りが無いことがわかります。

「平将門魔法陣」では、この7社だけがクローズアップされているのだけど、実際に将門ゆかりあるいは討伐側とのゆかりのある神社は他にもいくつか見つかりました。

地図に当てはめると図の通り。オレンジの点が将門にゆかりがあるとされる寺社、赤の点が討伐側とゆかりの寺社、グレーが関わりが無い神社になる。

 

 

 

7つの社のリスト

鳥越神社の画像

鳥越神社

貪狼の星(天枢) 北斗七星の右から1番目

【選出理由】宮司が将門の子孫、祭神が将門と伝わる

【祭神】日本武尊・相殿天児屋根命・徳川家康公

【由来】人皇十二代景行天皇の皇子日本武尊にてまします也、此尊東夷征伐して帰り給うてより後、八尋の白智鳥となりて飛び去り給いしに基づき、此皇子を祭れる所を鳥越と申しける也。「御府内備考続編より」

【縁起】正保二年(1645)以前の旧号は鳥越三所明神といい、今戸の熱田神社、蔵前の第六天榊神社が並び祀られていた。熱田は石浜神社に譲渡、第六天は鏑木氏の分家が務めた。

 

 江戸砂子には当社の宮司鏑木氏が将門を祖とする平忠常(忠頼と将門の次女春姫の子)の末裔千葉氏族であるため、古くから先霊社に将門の霊を祀ると言い伝えられてきたが、現在祭神にその名は無い。築土神社のように朝廷の反逆者であることを憚って祭神に記載しない場合もあるが、無いものは何とも言えない。末裔なので関りがあるか無いかでいえば○である。

 

 

 

 

兜神社の画像

兜神社

巨門の星(天璇) 北斗七星の右から2番目

【選出理由】将門が自ら甲冑を納めたと伝わる

【祭神】倉稲魂命 右に大国主命・左に事代主神命を合祀

【由来】明治十一年(1878)、東京株式取引所が設けられるに当たり同年五月取引所関係者一同の信仰の象徴および鎮守として兜神社を造営した。

【縁起】当社には、社号に兜、背後の川には鎧の渡しがあったように、兜や鎧にまつわる伝承が3つある。

天慶三年(940)俵藤太(藤原秀郷)が将門討伐の折、将門の兜をこの地に埋め、塚を築いて兜塚と称するようになったというもの[1]。「紫のひともと」

永承年間(1046-1053)、源義家が奥州征伐の折、ここより船で下総国へ渡ろうとしたところ暴風吹き荒れて難航したため、日本武尊の例に倣い鎧一両を海中に投じて龍神に祈願し鎮め、ここを鎧が淵と称するようになったというもの[2]。「江戸名所図会」

将門自身が兜と鎧を納めたところ[3]。「鎧の渡し跡(中央区教育委員会設置掲示板より)」

 

 現在の兜神社は、伝承を伝える兜岩が境内に設置されてあるのみで、神社自体はこれら伝承と関係が無いため祭神にも将門の名は無い。[3]が本当であるなら聖地といういみでは○。

 

 

 

 

将門塚(首塚)の画像

将門塚

禄存の星(天璣) 北斗七星の右から3番目

【選出理由】将門の首を奉斎(供養)している

【伝承】京の七条河原に晒された将門の首は、腐敗することなく目を見開き、三日後には不気味に光りながら東国へ向かって飛んでいった。当地に落下し、次々と災いを成したため或は憐れんだ人々が塚を築いて篤く祀った。

 

 通称首塚ともいうが、そもそも塚の埋葬人が将門かどうかなど確かな証拠はないし、いろんな書籍を見ても「将門塚」に触れられていない。すべての著者が憚ったのか、あるいは存在しなかったからこそ記載が無いのか。ただ大正のころまでは実際に墳墓とおぼしき塚があり、写真が残っている。現在の将門塚は、塚も祭祀の宮居も無く、ただ供養塔と石灯籠が立つのみだが、これでも祀っているとはいえる。

 

 

 

 

神田明神の画像

神田神社

文曲の星(天権) 北斗七星の右から4番目

【選出理由】将門を奉斎している

【祭神】大己貴命・少彦名命・平将門命

【由来】上平川村芝崎(現:大手町将門塚周辺)にあった。江戸城拡張工事のため慶長八年(1603)に神田台へ、元和二年(1616)再び遷座し、以来400年同地に鎮座されている。明治時代に朝廷の逆賊であるとして祭神から外され、空座に少彦名命が入った。戦後数十年経って皇室に対するタブーが薄れると祭神として迎える機運が高まり、昭和59年(1984)には110年ぶりに祭神に復した。

【縁起】天平二年(730)、上平川村芝崎(現:大手町)に創建。当初は大己貴命(またはスサノオ)を祀り、日輪寺というお寺の小さな叢祠であったといいます。延慶二年(1309)に真教他阿によって将門の御魂を合祀して二座とし、その後慶長八年(1603)に一橋家(気象庁辺り)に、元和二年に現在地に鎮座されています。代々木の平田神社に秘蔵されていた、平田篤胤が尊崇した将門像が、昭和59年以来、神田神社に遷つされています。

 

神田明神と築土明神

今でこそあまり広く知られてはいないものの、江戸時代にはすでに神田明神と築土明神は同体でどちらも「江戸総鎮守」と言われていた節がある。

例えば神田神社では、将門塚を起源としてかつて江戸城ができる以前から祀られていたという牛頭天王即ち素盞雄尊を奉斎している境内社があり、これを江戸の地主神として「江戸神社」と称した経緯がある。

一方築土神社も将門塚を起源とし、統治者の交代や災害が起こる度に遷座を繰り返しているものの、江戸時代には「御城内の氏神」として徳川家からも篤く尊崇されてきた。また次戸明神とも書き、これは江戸明神が誤って伝わったもので、築土明神は素盞雄尊と平将門を祀っていた(現在は瓊瓊杵尊と平将門公)

 

 

 

 

築土神社の旧地

廉貞の星(玉衡) 北斗七星の右から5番目

【選出理由】将門を奉斎していた

【縁起】芝崎の将門塚を起源とする築土神社の創建は、討たれた将門の首が江戸の地に堕ちた天慶三年(940)を起源とし、土を築き込めて築土明神と称した。田安(九段北)~牛込御門内(富士見)~筑土八幡町などを転々とし、戦後九段北に移転しています。

 

 北斗七星の形を完成させるためには、現在地ではなく、江戸時代を通して328年間あった筑土八幡神社の境内でなくてはならない。

築土神社の由来など詳細は、後日続編の「魔法陣外二十所」にてまとめます。

 

 

 

 

水稲荷神社の画像

水稲荷神社

武曲の星(開陽) 北斗七星の右から6番目

【選出理由】見当たらず

【祭神】豊受姫大神・佐田彦大神・大宮女大神

【縁起】藤原秀郷が高田の地にあった毘沙門堂にて将門討伐を祈願し、天慶四年(941)戦勝後に宝泉寺を草創および当稲荷を勧請。

 

祭神にも、伝承にも、将門との関わりは見出せません。

 

 

 

 

鎧神社の画像

鎧神社

破軍の星(揺光) 北斗七星の右から7番目

【選出理由】将門を奉斎している

【祭神】日本武命・大己貴命・少彦名命・平将門公

【由来】旧称鎧大明神といい、四世紀にヤマトタケルの鎧を埋めて祀ったのが興りであると伝わる[1]。一説に秀郷が将門討伐後に大病を患い、将門の神霊の怒りを恐れ将門の鎧を埋め弔った[2]、もしくは天暦年間(947-957)土俗が公を追慕し鎧を埋めたとも[3]。

 

 [2]であれば関わったのは討伐側の秀郷であるが、[2]と[3]いずれにしてもこの時をきっかけに平将門公を祭神に加えたことになる。祀っているという意味では○。

余談ですが、この柏木地域は秀郷と将門の戦場で、弟の将頼が戦いの最中に蜀江錦(しょっこうきん)を落としたと伝わる蜀江坂、蜀江山の名が残っています。

 

 

 

外二十所

さて、今回調べてみて、魔法陣の構成要因から外れて入るものの、将門とゆかりのある寺社、討伐側とゆかりがある神社が他にも20ヶ所ありました。これらを敢えて除外しないと北斗七星が際立ちません。魔方陣外二十所についてはこちら

 

 

将門信仰

この首都東京のど真ん中にかつて徳川将軍家が築いた天下の巨城・江戸城があり、その頭上とも言うべき北側には、平将門ゆかりと伝わる神社が広がっていました。

関東の覇者ということもあって、もちろん他県にもゆかりの遺跡や伝承はあるのですが、どうして東京に将門の伝承が多いのか。

そこで気になったのは、江戸地域の歴代の統治者たち。平安時代末期の渋谷長者・河崎基家、鎌倉幕府執権北条氏の内管領・長崎円喜、原初の江戸城にあたる館を築いた江戸氏、それ以降も豊島氏、葛西氏、板橋氏、千葉氏、北条氏綱と、江戸の地は永く平氏によって庇護されてきた土地だとわかります。桓武天皇の五世の孫といわれる平将門の東国における華々しい活躍は、その子孫にとっては一族にとっての英雄であり、尊崇の対象だったのでしょう。

 

 

 

 

魔法陣だったのか

これら取り沙汰されている伝説として、神田神社は将門の体を祀っており、「カラダ」が訛って神田になった。鳥越神社では将門の首が飛び越えて来たから「飛び越え」が鳥越になった。それぞれの神社で将門の「首」「体」「腕」「足」「兜」「鎧」を祀っているなどがある。

①は伊勢神宮または日比谷神明(芝大神宮)に奉納するための米を産出する神田(みとしろ)があったことに因むとされる(現在も美土代町にその名残がある)。

②は日本武尊(白智鳥)の飛び去ったことに由来し、将門の首が飛び越えたわけではない。というか、京都から飛来して鳥越を飛び越えたのなら、将門の首は大手町まで引き返して来て着地点を選んだことになる。

③そもそも部位ごとに祀ったという話を見かけないし、なにより亡骸をバラバラにするのは崇敬ではない。

後日掲載予定の「魔法陣外二十所」にも出てきますが、将門に由来する神社、討伐側の人物に由来する神社は他にもあり、たまたま北斗七星に見える神社を線で繋げ、そこのみがクローズアップされただけと言えそう。なにより将門にゆかりがある神社の方が少ない結果となった。

 

 

 

 

将門の人物像

平将門についてざっくり調べてみました。掲載順に困ったので最後にしました。

 坂東平氏。高望王を祖とする氏族であるとされるものの、桓武平氏は仮冒(他人の名を語る)であり、古族の末裔との説もある。高望王という人物は、桓武天皇の孫か曾孫であるとすでに曖昧で、子は11人、孫が少なくとも24人(将門の兄弟だけで10人)と妾が一般的であった時代にしても多い。賜姓皇族でありながら遥任せず、高望王、将門の父良将ら三兄弟は、直接任地に赴き、任期を終えても帰京せず現地に土着し坂東平氏の基盤を固めていった。千葉県東金市御門(みかど)・宮の両地区に将門の館が、高倉・片貝周辺には大小の関を築いたところであったとされ、十文字川で生まれ、殿廻(とのまわり)には将門の胞衣を埋めた胞塚が残る。

 将門は予てより叔父の鎮守府将軍平国香・同じく良正・上総介良兼、婚姻関係にある常陸大掾源護(みなもとのまもる)ら一族間での私闘が多い。上総国の実質的な長官であった良兼に至っては、中立を保っていたものの、将門と源護の長子・扶(たすく)との抗争に巻き込まれて軍事介入したりと、境遇は芳しくない。長子が相続をするという制度が無い時代の環境下にあったことも災いしてか、闘争を繰り返し、各国の国衙を制圧した将門は結果的に討伐の対象になってしまう。