今回の参詣は、中央区浜離宮庭園の稲生神社(いなぶじんじゃ)へ。

都立浜離宮恩賜庭園の敷地内に鎮座する神社。

 

 

 

ここは都営大江戸線『汐留駅』の東側、旧築地市場の南側に当たる。

新大橋通りと海岸通りが交差する『汐先橋交差点』が庭園の入口。

 

 

 

浜離宮恩賜庭園

当庭園は、元は承応三年(1654)に徳川家綱の弟で甲府藩主の徳川綱重が海を埋めて立てて甲府藩下屋敷としたところ。

綱重の子・綱豊が六代将軍家宣になると、廃絶となった甲府藩屋下屋敷は徳川将軍家の別邸『浜御殿』となり、明治三年(1870)には宮内省の管理下となって名を『浜離宮』と改められた。戦後は東京都に下賜され都立庭園となって一般に開放されている。入場料は300円。

 

 

 

 

稲生神社

庭園の北側中央、築地川寄りのところにある。

創建不明というものの、手水鉢には「元文五庚申年四月」とあり、他所から移されたものでなければ、江戸時代中期の1740年よりも前、将軍家の別邸時代からあった事が窺える。1740年というと徳川吉宗の代。

 

 

 

 

手水鉢

「元文五庚申年四月 文政五壬午年三月」と併記してある。前者が西暦1740年、後者が1822年。

80年も後の世代が奉納し直したという意味なのだろうか。

 

 

 

 

稲生神社の由来

境内掲示より字体改行などそのまま記載

旧稲生神社の創建時期は明らかではありませんが、江戸時代後期の絵図には現在の場所より西方

に稲荷社が描かれていることから、庭園内に稲荷社が古くから祭られていたことが知られています。

現在の建物は、前身となる社殿が明治27年(1894)6月20日に東京湾を震源とする地震で倒壊し

たため、翌年に当時の宮内省 内匠寮の手によって、同規模 ・ 同形式で再建されたものです。一方、

内部に祭られている宮殿は、その建築技法から江戸時代後期のものであると推定されています。

建立から現在に至るまで、幾度か修理の手が加えられたことが、調査によって判明しています。

なかでも、大正12年(1923)9月1日に発生した関東大震災では大きく破損し、倒壊は免れたようで

すが、昭和6年(1931)に同じく内匠寮によって大修理が行われました。そして、平成17年には文化

財としての大掛かりな修理を行い、ここに明治時代の創建当時の姿を伝えています。

 

 

 

 

写真はすべて2010.04.04(夜桜)2017.03.04(その他) 撮影

 

備考 

社号 稲生神社 いなぶじんじゃ

創建 

祭神 

祭日 

末社 

社務所 

所在地 東京都中央区浜離宮庭園1−1

その他 浜離宮恩賜庭園内北東(築地川寄り)

 

 

庭園散歩

 

 

庭園を反時計回りに巡ってみる。

垂直に伸びる樹木が無造作に生えていて、いわゆる大名庭園という趣はあまり感じない。

それに苔の繁茂した美しい庭園を都内では一軒も見たことが無い。

 

 

 

 

桜の木

庭園の西側。

普段は午後5時に閉園するのだけれど、桜の季節の時は7時を過ぎてもライトアップされている。

7万5000坪余りの広大さ敷地がありながら、桜並木はわずか30メートルほどしかない。

写真は2010年当時。

 

 

 

 

鴨場跡

将軍家の別荘となって以降、十代将軍徳川家治のころに造られたもので、傍らには捕獲した鴨を供養するための鴨塚もある。

 

 

 

 

この覗き穴から様子を見て、陰から鷹を放して捉えたのだとか。

歴代の将軍の身長は、ほぼ全員が160cm弱だったといい、それからすると穴の位置が少々高い。天下の大将軍が踏み台に乗って覗いていたと思うと可愛すぎる。

 

 

 

 

富士見山

庭園の南側の角にある。

 

 

 

 

富士見山(庭園の南端)から北側を眺めた様子。

汐留のビル群の直線上には銀座や大手町がある。

 

 

 

くるっと反転し、肝心の富士山はというと、この有りさま。

富士山があるであろう南西側は、汐留第二ポンプ所という東京水道局の施設と汐留川があるのみで、なにより景色を見るように手入れをしていない。

 

 

 

将軍お上がり場

庭園の東側。ここが東京湾の入り江であり、ここから北側が隅田川になる。

かつて浜御殿には橋が架かって無く、川から船を使って下って来て、この辺りにから屋敷に上がったのだそう。

西の丸から堀をつたって日比谷、そして汐留川から入ったのかな。日本橋川の魚河岸を分け入って、荷揚場から乗るだなんてありそうにないし。

 

 

 

 

菜の花畑

庭園の北側。訪れたのが春先の3月初旬で梅や菜の花が見ごろ。

 

 

 

 

三百年の松

最後は庭園の北側、出入り口付近。

宝永六年(1709)、六代将軍家宣がこの庭園を大改修した時に植えられたと伝わる黒松で、都内では最大級。

地に這っている部分もすべて松。

 

ちなみにこの浜御殿を一番利用した将軍は、在任期間が50年と最も長い徳川家斉(11代)で、その来訪数は驚異の248回。平均するとおよそ2ヵ月に1回のペースで将軍のお出ましとしては頻繁。

次いで家慶(12代)が99回でこちらも隔月ペース。第3位が家治(10代)の19回で1年4ヶ月に1回ペース。それ以外の将軍は数回程度かゼロ。利用した将軍の中で頻度が低いのは、改革者であり倹約家の吉宗が30年の在任期間中にたった4回(7年に1回ペース)。

とはいえこんなに将軍に愛された場所は、他にあるだろうか。