今回の参詣は大田区南馬込の北野神社へ。
ここ南馬込は大田区の北部に位置し、昭和初期には萩原朔太郎、川端康成、北原白秋などの文人が多く住んだ町。
馬込北野神社
天文年間(1532-1555)に平林重郎左衛門という人物によって京都の北野神社の御分霊を奉斎して創建された。
江戸時代前期の当地域では、新井義民六人衆と称えられたうちの一人に「平林十郎左衛門」という同名の人物がいるから、古い時代から名主などの名家だった人物だろうか。ちなみにこの義民は、大旱魃や多摩川の氾濫などで農民の生活が貧窮する中、大罪を覚悟で幕府へ直訴するため江戸に赴いた村の代表者六人のこと。江戸入り直後、領主の旗本木原氏に捕らえられ斬首刑に処された。
狛犬
右が阿形で乳飲み子を抱き、左が吽形でこちらも子抱き。
御由緒
境内掲示より字体改行などそのまま記載
馬込 北野神社について
(一)北野神社
当社は天文年間(1532~1555年)
武蔵国荏原群馬込村東谷に居住の平林重郎 ※まま
左衛門という人が、西京(京都)から北野
神社の分霊を奉祀したといわれています。
当地の古老の話に、当社は芝高輪から船で
大森海岸にお迎えしたという事が伝えられ
ています。京都から北野神社の分霊をお迎
えした時の事ではないかと思われます。
祭神は菅原道真公で、文筆・学問の神とし
てまことに霊験あらたかな神様です。
(二)稲荷神社
旧稲荷神社は現在の神楽殿の所にありまし
た。寛政九年(一七九七年)に山城国紀伊
郡稲荷本宮(京都伏見稲荷)神主下総守正
四位下奉宿祢親景から分霊を受け、奉祀さ
れたといわれます。
現稲荷神社の建物はもと佐野常民伯爵邸の
屋敷稲荷で、馬込第三小学校の裏山あたり ※北西2km先
にありました。佐野邸移転の折り、稲荷神
社の行き場所に困り、当町会に交渉されて
昭和四十二年ころ現在地に移築されたもの
です。
佐野常民氏(1822~1902)とは日
本赤十字社を起こされて初代社長に就任さ
れた方です。
(三)筆塚
昭和十二年に当地出身者の金子赤太郎氏が
現在の碑を建立しました。この場所には以
前から筆塚があり、昔の子供たちが文筆の
上達を祈願して、使用した筆を神に捧げ、
感謝しつつ供養した所です。
筆塚
本社殿向かって右側にあり。
稲荷神社
寛政九年(1797)に京都の伏見稲荷大社から御分霊を受けて奉斎された神社で、伯爵佐野常民邸の屋敷神だった。
佐野常民は、枢密顧問官、農商務大臣、大蔵卿、元老院議長や日本赤十字社社長を務めた人物。屋敷はここより北西に2kmほど先のところにあった。
庚申塔
右
正面に「東海道武陽馬込村東●里百人善男」などの文字が読み取れ、右側面に「時(山冠にユと日)延宝八●●混灘天黄鐘吉祥日」とある。
延宝八天は西暦1860年徳川綱吉が将軍に就任したころ。黄鐘は11月の旧称。
中央
右側面に「奉造主庚申供養」など、左側面に「武州荏原郡馬込村天神谷 享保九甲辰拾二月十五日 一講同行十四人」とある。
西暦1724年で徳川吉宗の時代で、京都と大阪で享保の大火があったころ。
左
正面に「奉供養武州馬込村東谷中」とある。
平和の神
「戰死者無縁之霊」とある。
ほかに参道左側に神楽殿と、その手前には町内の集会所的な社務所がある。
写真はすべて2019.01.19 撮影
備考
社号 北野神社
祭神 菅原道真公
創建 天文年間(1532-1555)
祭日 9月中旬
末社 稲荷神社
社務所
所在地 東京都大田区南馬込2丁目26−14
その他