今回の参詣は、北区上中里の平塚神社(ひらつかじんじゃ)へ。

ここはJR京浜東北線上中里駅南側に鎮座する源義家・義綱・義光の三兄弟を祀る神社。

また当所から北西1kmのところにある飛鳥山までの一帯が、豊島氏の居城のひとつ平塚城だったと比定される。

 

 

 

100m程続く森のトンネルを抜けると御社殿が見えてくる。

 

 

 

平塚神社

秩父平氏豊島氏の館があった地。後三年の役の帰路、源義家・義綱・義光の三兄弟が立ち寄り饗応を受けた。その礼に鎧と千手観音を下賜したとされ、豊島近義は義家の死後に鎧を埋めて塚を築き、社を建てて、八幡太郎源義家命(はちまんたろうみなもとのよしいえのみこと)、賀茂次郎源義綱命(かもじろうみなもとのよしつなのみこと)、新羅三郎義光命(しんらさぶろうみなもとのよしみつのみこと)を祀り、平塚はこれに由来する。

この頃の豊島氏は源氏の家人であり、また鎌倉時代には鎌倉殿(頼朝)の御家人に加わっている。

 

 

 

江戸名所図会

巻之五 玉衡之部 より 『平塚明神社 鎧塚』

 平塚明神社 平塚村にあり当社縁起に云く、往古八幡太郎義家

兄弟奥州前後十二年の戦ひ終はり凱陣のみぎり、この地に逗留

ありて城主豊島氏某あるいは豊島太郎義近ともいへりに鎧一領ならびに守り

本尊十一面観音長七寸行基菩薩の作なりいま城官寺に安置すを賜ふ、その後

元永年中、豊島氏城内清浄の地を択んでかの鎧を塚に築き収め

塚の形高からざるをもつて平塚と号す、地名もまたこれによりて称す城の鎮守とす、かつ

社を営んで三連枝の像を安じ平塚三所明神と号す、これ義家兄弟

の武功を欽崇ひかつ武運を祈らんためなりと云々、別当を平塚山

城官寺といひ安楽院と号す本地阿弥陀如来を安ず赤壇仏毘首羯摩天の作、瑪瑙の

玉座なり昔筑紫安楽寺の僧回国修行のみぎりこの像をここに安置

せしとぞ、

 

 

 

八幡太郎義家兄弟、奥州征伐凱陣のころ武蔵国に入りたまひ、豊島某が住みし平塚の城に逗留ありて、あるじに鎧一領を賜りけるを、後塚に築き収めて城の鎮守とし、平塚三所明神といつきまつりしも、実に武功のしからしむるゆゑんなるべし、

 

 

『平塚城戦』

 平塚の城跡 平塚明神のあたりより飛鳥山の辺りまでをいふ、

鎌倉大草紙に云く、文明九年四月十三日、道灌江戸より打つて

出て豊島平右衛門尉が平塚の城を取り巻き、城外を放火して帰

りけるところに、豊島兄の勘解由左衛門を頼みける間、石神井の

城練馬の両城より出で攻め来りければ、太田道灌・上杉刑部少

輔・千葉自胤以下江古田・沼袋といふところに馳せ向かひ合戦し

て、敵は豊島平右衛門尉をはじめとして、板橋・赤塚以下百五拾

人討ち死にす、同十年正月二十五日豊島勘解由左衛門が平塚

の要害へ押し寄せ責めければ、その暁没落して敵はなほ九間の

城・小机の城に籠ると云々、

 

 

狛犬

右が吽形で左が阿形、左だけ崖下に子獅子がいる。

 

 

 

御由緒

境内掲示より字体改行などそのまま記載

平塚城伝承地 平塚神社

 平塚神社付近は、平安時代に豊島郡を治める郡衙のあっ

た場所だと推定されていますが、平塚明神幷別当城官寺

縁起絵巻(北区指定有形文化財)の伝承によれば、この時代

の末期には、秩父平氏庶流の豊島太郎近義おいう人物が平

塚城という城館をつくります。

 平塚城は源義家が後三年の役で奥州に遠征した帰路の

逗留地で、義家は近義の心からの饗応に深く感謝し、使っ

ていた鎧と守り本尊の十一面観音を下賜しました。近義は

義家が没した後、城の鎮護のために拝領した鎧を城内に埋

め、この上に平たい塚を築き、義家兄弟の三人の木像を作

り、そこに社を建てて安置したと伝えられます。これが本

殿裏側の甲冑塚とも鎧塚とも呼ばれる塚で、平塚の地名の

起こりともいわれます。鎌倉・室町時代の平塚城は、この

地域の領主であった豊島家代々の居城となりましたが、文

明十年(一四七八)一月、泰経の時代に太田道灌によって

落城してしまいます。

江戸時代、上中里村出身の針医で当道座検校でもあった

山川城官貞久は、三代将軍家光の病の治癒を平塚明神に祈

願し、家光は程なく快復します。感謝した貞久は、みずか

らの資金で平塚明神の社殿と別当の城官寺を再興し、買っ

た田地を城官寺に寄進します。貞久の忠誠心を暫くして知

った家光は感激し、二五〇石の知行地を与え、この内の五

〇石を朱印地として平塚明神に寄進させました。

 平成四年三月 北区教育委員会

 

 

彫刻

頭貫上の龍と木鼻の阿吽の獅子。

 

 

 

境内末社

菅原神社(平塚天神社)

御祭神 菅原道真命 大己貴命 豊島太郎近義命

御神徳 学業成就 縁結び 財運 家内安全 事業運

 

 

 

御料稲荷神社 (左)

御祭神 保食神

御神徳 豊作 商売繁盛

 

大門先・元稲荷神社 (右)

御祭神 保食神

御神徳 豊作 商売繁盛

 

 

 

石室神社(石神明神)

御祭神 蘓坂兵庫頭秀次命

御神徳 社守 天災除 病気平癒

 豊島氏の後、平塚城主となった蘓坂兵庫頭秀次命は平

塚明神を篤く祀った。秀次はみまかりて社の外側に葬

られるが、以降墳墓のあたりに毎年米が降るように

なった。村の長老は秀次の石墳を石神明神と崇めた。

石神明神は崇めれば必ず応えてくれ、水害や日照や疫

病の除災に御神徳を顕したと伝えられる。

 

 

 

写真はすべて、2017.7.22 撮影

 

備考

社号 平塚神社 ひらつかじんじゃ

旧称 平塚三所明神

祭神 八幡太郎源義家命 はちまんたろうみなもとのよしいえのみこと

   賀茂二郎源義綱命 かもじろうみなもとのよしつなのみこと

   新羅三郎源義光命 しんらさぶろうみなもとのよしみつのみこと

創建 元永年中(1118-1119)

祭日 8月12日御霊なごめ祭 9月15日前後例大祭

末社 大門先稲荷神社・元稲荷神社・御料稲荷神社・菅原神社・石室神社

旧社格 郷社

社務所 

所在地 東京都北区上中里1-47-1

その他 

 

※備考欄の内容は、当該社寺の公示又は典拠を基に記載し、不明瞭なものは空欄にしてあります。
またこのブログ内の記事は、散歩としての見所やおススメポイントとして、私が感じた主観的な評価であり、当該社寺の格式や宗教的価値、ご利益等を評価したものではありません。

 

 

周辺散歩

 

平塚山 安楽院 城官寺 ひらつかさん あんらくいん じょうかんじ

真言宗豊山派の寺院で、平塚神社の旧別当。

 

平塚神社の御由緒も、江戸名所図会にしても、お寺の由来に触れているので省略する。

一般参拝者の入れる境内はやや狭い。山門をくぐると目の前が本堂。

 

 

 

ここにもネコ。首輪が無いのと”耳カット”されているので野良猫だろう。

ただ、お寺の庫裏から出てきた方によれば、名前は”チヨちゃん”。

 

 

 

上中里七福神・西方不動尊・摩利支天

平塚神社からすると境内の後方、上中里駅からは南側に飲食店が数軒並んでいるところがあり、そこに七福神、不動、摩利支天が安置されている。

 

 

上中里七福神

 

 

摩利支天 (左)

猪に乗り、三面六臂の男性の摩利支天(まりしてん)像。摩利支天は女性神として表される場合もある。

御由緒 境内掲示より

疾走する猪の背に立つ像は摩利支天だけである。

陽炎や光線を神格化したもので三面六手で猪に

乗り真言をとなえて念ずれば一切の厄難をまぬか

れることができるといわれ武士に信仰された仏像で

ある。台石には、御嶽行心講とある。亥の年は、吉

兆、金運、良縁がかけこむといわれ亥はあらゆる難

を除き運を開く摩利支天の神力を表す使者とされて

いる。

 

西方不動尊 (右)

坐像の不動明王。摩利支天、不動明王のいずれも昭和2年(1927)に、この場所に移される。

御由緒 境内掲示より

この付近には瀧があり行場になっていて、この不動

明王像が置かれていたと思われる。

この仏像はあらゆる悪をこらしめることを目的にして

いるので、忿怒形(ふんぬがた)という怒り狂った恐ろ

しい形相をしておりますが、実はその内面では慈しみ

がふかいという。大日如来が変身された姿であるとか、

その使者であるとかいわれている。背中に火炎があり、

これが煩悩を焼き尽くし頭から左肩へ髪をたらし、羂索

(けんさく)と刀を持ち、岩の上に腰をかけている。

台石には享保二十年(一七三五年)の銘がある。光背

の火焔(かえん)の間がハート形になっている。鉄道工

事や道路拡張に伴ってたびたび移転されここに置かれ

たのは昭和二年のことである。

 

板碑には「享保初年御鎮座往時を偲びて奉納昭和四十七年一月吉日 明治通り上中里の柳糸 榎本松次郎書 枩山八十五寿歳 とこしえに大杉並木の不動様 多数の鳥のさえずるこえよ 明治二十七年頃の実状の記録」とあり。