当地の氏神洲崎神社を調べるにつれ、ここには新吉原に次いで大きな歓楽街があったことを知り、今となっては面影も無くなってしまったとはいうものの、洲崎の現在を見てみたくなった。今回は洲崎遊郭または戦後10年ほどあった洲崎パラダイスの跡を辿ってみたい。

 

第五〇〇回 洲崎神社 →前回

第五〇〇回その2 洲崎を歩く →今回

以上、2回に分けて掲載します。

 

 

 

大門跡

地図1-① 東陽3-20-9辺り

ここは木場駅の東側、永代通りから「東陽町三丁目」交差点を南に入ったところ。

周辺から盛り上がったここにかつて洲崎橋が架かり、売春防止法が施行される前日の昭和33年(1958)の3月31日まで洲崎パラダイスのメインゲートとしてあった。

 

 

 

 

洲崎橋跡地

洲崎遊廓及び洲崎パラダイスへの入り口にあった橋。橋の左右の欄干にあったであろう橋名板がポツンと置かれているのみで、新吉原に次ぐ歓楽街だったこともそうだが、景勝地でもあったことさえ伝えるような記念碑はどこにもない。

 

洲崎 すさき/すざき

今からおよそ320年程前の元禄年間(1688-1704)、深川の東側に築かれた埋立地で洲崎ヶ原といい、海岸からは北東に筑波山、南西に富士山、一面には房総半島を見渡せる景勝地。浮世絵師歌川広重の大作「名所江戸百景」のひとつ『深川洲崎十万坪』で知られ、潮干狩りや正月の初日の出の名所としても人気で、江戸の人々にとっては、今でいうレジャーランド的な場所だった。

 

 

 

在りし日の洲崎パラダイスの地図をもとに再現。

先述のとおり何一つ面影を残していないんだけど、一二を争う大見世(おおみせ/大店)や引手茶屋、けころがあった場所など目星をつけて巡ることにしました。全部で16ヶ所。

 

洲崎遊廓と洲崎パラダイス

遊廓というと江戸時代にあったものというイメージが強いのですが、意外にも洲崎に遊廓が誕生したのは明治に入ってから。

明治十九年(1886)、根津神社の傍らにあった岡場所(非公認の私娼窟、後の根津遊廓)が東京帝国大学(現:東京大学)建設に当たって風紀上芳しいものではないとして、そっくり引越させられ初期の洲崎遊廓が形成されていった。ちなみに根津に居た芸者衆は移転せず、洲崎の芸者は殆どが新規に雇われた芸者だったらしい。

そして57年続いた洲崎遊廓も、戦時中に閉鎖させられ、終戦後はすぐに”洲崎パラダイス”として復興。いわゆる赤線として12年続いたのち、昭和33年(1958)ついに売春防止法施行を以て完全に営業廃止された。

 

 

 

 

仲の町通り跡

今となっては名もない6車線の大通りも、かつては仲の町通りといって遊廓のメインストリートだった。新吉原と違い、洲崎の大通りに面した側には大見世は少なく、中小規模の妓楼、貸食舗(りょうりや)、引手茶屋という紹介所がずらりと並んだ。

幾つかの本を見たけど、いずれも「貸食舗」には”りょうりや”と振り仮名が振られていた。飲食店というものが無い時代、仕出しを頼んで、食事のための部屋を貸す店舗という考え方だったらしい。

 

 

 

地図1-② 東陽1-12-6辺り

ここに引手茶屋が四軒並んでいた場所。洲崎パラダイス廃止後は、往時を偲ぶもののほとんどが失われ、妓楼の「大賀(たいが)」の建物が唯一残っていたんだけど、それも東日本大震災の翌年に取り壊されついに完全に消滅。それにしても廃止後60年経った今でも、土地の区割りがそのままの所がちらほら見つかります。

 

 

 

地図③ 東陽1-6-9

千代田楼支店の隣にあった「大正湯」は、”金春湯”と名を変えて残っています。継続しているのか、全く別の経営なのかちょっと気になる。

グーグルマップで館内を見るとめちゃくちゃキレイ。

 

 

 

地図④ 東陽1-5-4

写真左側には「金中楼」があった。現在は「東陽町一丁目第一公園」になっていますが、この外郭を巡る川の岸には小さい店が所狭しとひしめき合っていたが、その中でも金中楼は大きかった。

 

 

 

街並み

ここでちょっと見世について、せっかくなので昭和初期の洲崎弁天町の地図を基に、当時の洲崎をさらに詳しく再現してみた。クリックすればいくらか大きく表示されます

四方に堀を巡らせ、大通りから大門で折れる大門通り(仲の町通り)新吉原の廓にそっくりで、碁盤の目のように整列した吉原の見世に比べ、洲崎は建物の縦横の配置も形も様々。

見世(店/みせ)は、仲の町通りと横十間通りが交差する一等地にどんと構える本金楼が別格の大見世で、その南斜向かいの平野楼、後背の本住吉楼藤春楼、東側の大八幡楼に、向の中梅川楼ら大見世が幾つか見られる。

 

屋号

洲崎遊廓の店名・屋号として多いものは、第一には梅川系。本店の梅川楼は2丁目10番地に小さな見世を構えるのみだが、暖簾分けをしていくことで拡大。福梅川、松梅川、秀梅川など14もの系列店があり、最も大きい梅川系列店は先に登場した中梅川楼。

次いで岩井系、本店は西洲崎橋にほど近い1丁目11番地にあり、吉岩井、玉岩井、国岩井など6つの系列店があるも大店は無く、内4店舗はけころ。他には、住吉楼が本店で大住吉楼が大店の住吉系が5つ、正八幡楼が本店で大八幡楼が大店の八幡系が4つと続いた。超がつくほどの大店だった大八幡楼は、火災に遭って一度店舗を失い、その跡地に30もの妓楼が建ったというのだから、いかに大きかったかがうかがえる。

昭和初期には、妓楼267軒、引手茶屋19軒もあったそう。

 

 

 

地図⑤ 東陽1-16-16

ここには洲崎一の大見世「本金楼(ほんかねろう)」があって、現在はアパホテル東京木場が建っているが、この二倍の敷地を有していた。

このホテルだって窓の数からすると、左右に6部屋ずつあるとしてワンフロアに12部屋、妓楼も大概部屋は六畳か広くて八畳だから二階建てと言ってもかなりの部屋数だったことだろう。

昭和初期の洲崎では、本金楼、晴光楼、平野楼、中梅川楼、本住吉楼、藤春楼の六軒は、茶屋受貸座敷という格でフリ(一見さん)は原則として登楼できない。これらの見世は、引手茶屋から案内されて来た客のみを歓待した。また本金楼は洲崎遊廓創建当初から営業していた老舗でもある。

 

 

 

 

地図⑥ 東陽1-18-9

白い建物とその奥の駐車場までの所に、洲崎で二番目に大きい平野楼があった。その堂々たる店構えから当廓一の大妓楼ともいわれた。

 

 

 

地図⑦ 東陽1-17-13

ここの角に藤春楼があった。野洲楼の支店だったが、妓がやくざにピストルで撃ち殺される事件があってから改名した。こちらも格の高い大見世で、日本建築で立派なのは藤春楼が第一であったらしい。現在はレトロなコンクリート建築になっている。

 

大見世

見世にも格式といった風情があって、大見世ともなると楼閣の大きさや娼妓の多さだけでなく、儀礼的な作法があった。

基本的にいきなり店には上がれず、まず引手茶屋に出向いて好みを伝え、茶屋の紹介を以て初めて登楼できる。また一度面識を持った遊女、店は基本的に変えることが出来ないなどのルールがあった。引手茶屋では芸者や幇間(男芸者)を招いて酒席を設けて遊び、遊女が茶屋まで迎えに来るのを待ち続け登楼する。初顔合わせを初会(しょかい)といい、座敷に上がって再び宴会を設けるも遊女は無表情でだんまりを決め、一切の飲食もとらないでお開きになる。二回目の登楼を裏を返すといい、初会と違い遊女も少しだけ食事をし会話もする。或る意味ここまでがお見合いみたいなもので、裏を返さないのは恥じだとされた。三回目でようやく”なじみ”となり疑似夫婦が成立し、呼び方も「客人」から名前に、登楼する時も”おかえりなさい”になる。

 

 

 

地図⑧ 東陽1-19-12

ここのアパートは昭和33年築なので、ちょうど洲崎パラダイスが終わった年に建設された物件になるんだけど、味わいとソレっぽい雰囲気のある。若竹荘は横並びで二棟有り現在入居者募集中。ちなみに風呂無し共同トイレだけど、部屋4.5畳に炊事場と収納がついて、地下鉄東西線木場駅へ徒歩9分の好立地で26,000円は格安。風呂も洗濯も金春湯がある。

 

 

 

地図⑨ 東陽1丁目1、2、19、20番地

当時は海がこの背後まで迫っていて、岸のこの辺り一帯がけころだった。

道路が突き当りでクランクになっているのは昔のまま。

 

けころ

行為のみを求める客を相手にした格下の遊女屋をいう。”蹴転”という字を当て、とっかえひっかえ客を取るといった意味だろうか。格式を重んじ、なにかと儀礼的で多額のお金がかかる大店に比べ、安価なため気軽に通えるという利点があった。

 

 

 

地図⑩ 東陽1-21-6辺り

東側に移動して再び大通りへ。

今は海が埋め立てられ、洲崎の南側に「南開橋」が通されて新たに塩浜、枝川、塩見ができている。その南開橋の手前に道路からはみ出るような形で公衆トイレがポツンとある。今回歩いてみて、在りし日の洲崎と全く変わらずに現存する唯一のものがトイレだった。

 

 

 

 

地図⑪ 東陽1丁目8、14番地

この並び一帯、信号を越えた方まで、引手茶屋と小さな妓楼が20軒ほど並んだ。

 

 

 

 

地図⑫ 東陽1-23-6

「東陽一丁目」交差点を右に入ると旧横十間通り。ここの右手側にあるブルーのマンションに大八幡楼があった。丸八幡楼、新八幡楼などがある八幡楼系のなかで最も大きい見世。本店は正八幡楼。

 

 

 

大賀跡

地図⑬ 東陽1-38-6

そのまま横十間通りを東に進むと見えてくる、この白い建物が、洲崎パラダイス時代の妓楼の姿を残していた最後の建物があったところ。廃止の昭和33年(1958)から平成23年(2012)まで54年も残り続けたが、さすがに東日本大震災で不安を感じたのか、ついに取り壊されてしまう。

 

 

 

 

地図⑭ 東陽1-39-5

現在都営アパートのあるこの一角に、警視庁洲崎病院と三業事業所があった。高層の方が事業所、写っていないがその背後にある低めのアパートの方に洲崎病院があった。

 

 

 

供養碑

アパート入り口の広場に安置されている。洲崎遊廓開始以来先亡者追善供養として、信州善光寺大本願大宮尼によって法要が執り行われたもの。

 

 

 

地図⑮ 東陽1-25-13

洲崎にも著名な見世から暖簾分けをする形でいくつかの系列店があったが、その中でも一番は梅川楼を本店とする梅川系で、系列の中ではここにあった中梅川が大見世。写真に写っているところほぼ全部。

 

 

 

地図⑰ 東陽1-25-6辺り

深川祭りの時は、神輿を担いで大門をくぐってここぞとばかり男の威勢を見せたとか、娼妓が水や水菓子とともに名入りの手拭いを渡したり、神輿を見世の外に置いて朝方までなんてことがあったなんて想像もつかない。

 

 

 

洲崎球場跡

せっかくなので足を延ばして東陽町へ、永代通りより江東運転免許試験場へ向かう通り。

洲崎パラダイスと些かの繋がりがあったようなのでついでに調べてみました。この通りの右側が幻の洲崎球場(大東京球場)があったところです。

昭和11年(1936)にわずか3ヶ月の突貫工事で完成した全て木造の球場で、大東京軍(横浜ベイスターズの前身)、東京巨人軍が使用した。後楽園球場が完成するまでの7年間のみ使用されすぐ解体されたために資料が無く、長らく正確な所在地がわかっていなかったみたいです。

 

 

 

現在はオルガノ株式会社の敷地になっているので少々撮りづらいのですが、いい景色。この辺は高層ビルの間隔が広いので明るく気持ちがいい。

 

 

 

江東区役所2階の有償刊行物を取り扱っている窓口付近にある洲崎球場の模型。

木造の突貫工事に、運河や海の目の前にあって津波の怖さを鑑みなかったところが現代人には信じられない。

また今と違ってスポーツ選手に聖人君子を求めていない時代だったこともあって、試合終わりに都電に乗って洲崎遊廓へ繰り出す選手も多かったらしい。ほとんど精進落としみたいなもの。

 

 

 

遊女と信仰

その商売上、縁起担ぎや災厄避けに信心篤い人が多く、弁財天社(洲崎神社)にも店明けの遊女が三々五々参詣した。娼妓・妓家の主人らというのは信心篤く、赤坂豊川稲荷や深川不動堂などの石塀に刻まれた奉納者名の多くに、新吉原や洲崎の見世の名が刻まれ現存している。信奉からくる奉納であるが、石塀という誰もが目にする場所に記されることで広告の役割もしていた。

 

12年ほど前、上京して免許を取りに行った中央自動車学校の通い道の脇に、洲崎神社があったことなど当時はまるで気付いていなかったが、身近な所だっただけに、もう少し早く知っていれば些かの面影を覗くことが出来ただろうとつくづく思う。