今回の参詣は、千代田区神田須田町の柳森神社(やなぎもりじんじゃ)へ。
当社は秋葉原駅から南へ50m、神田川を越えた川岸に鎮座する稲荷神社。
私が初めて訪れたのは、かれこれ10年以上前かと思うのだけど、その頃からすでに当社には有志鉄線が巡らされていて、ずいぶん変わった神社だと思ったのを思い出す。ネコ除けなのか泥棒除けなのか。
鳥居をくぐった先に下りの階段があり、周囲の建物からすると、この神社だけが一段低い所に建立されている。
特別有名ではないけれど、参拝客の出入りは意外と多い。
手水舎
柳森神社(やなぎもりじんじゃ)
長禄二年(1458)太田道灌が江戸城の鬼門除けとして、京都伏見の稲荷大明神を勧請した。当初は神田川を挟んで北側の秋葉原駅付近に創建したといい、また当時は柳ではなく笹の繁る地だった。
御由緒
境内掲示より字体改行などそのまま記載
柳森神社由来
今を去る五百余年の昔この東京が
武蔵野の原と稱し足利時代の頃長禄
二年太田道灌公江戸築城の時その東
北方即ち此所に城郭鎭護鬼門除けとして
京都伏見稲荷大明神を勧請して御祀り
申し上げ神田川土堤一帯に柳の木を
多數植え繁茂したるに依り柳原の
名と共に柳森神社の起源となった其の
後江戸城を中心に年を追って江戸
八百八町は繁榮しこの柳森神社も
商売繁昌の神として非常に殷賑を
極めたものである元禄と文政の頃には
德川家より社殿造營の寄進があり其の
造營物は大正十二年九月一日の関東
大震災にて惜しくも烏有に帰した尚其
頃迄この周邊には柳町小柳町元柳原町
向柳原町柳原河岸などと柳に因んだ
町名の有ったことも此の柳の森より
起因したものである
昭和三十年が當神社創建鎭座五百年
祭に相當するので崇敬者の發願に
依って記念事業として此の神樂殿を
建立し同年五月十五日落慶大祭を
執行した次第である
例大祭は毎年五月十四日・十五日
昭和三十六年五月吉日
献額神田須田町二丁目一七会有志
江戸七森
日本橋小伝馬町に鎮座する竹森神社には、「江戸七森」なる旨の掲示があり、それによれば、「椙森すぎのもり」堀留 「烏森からすのもり」新橋 「初音森はつねのもり」馬喰町 「柳森やなぎのもり」柳原土手 「あずまの森」向島 「笹森ささのもり」谷中 「竹森たけのもり」小伝馬町の七つの鎮守の森を有したお社たちをもって七森としている。当社も七森のひとつ。
狐像
向かって右が宝珠を抱え、左が子抱き。
これまで見てきた中でも、とりわけ生き生きとした造形。
新編江戸砂子温故名跡志 より
柳森稲荷社 柳原土手下 別当仁王院
はしめは小笹の中にすこしき祠なりしか元禄八年に
はしめてやしろ造立し江戸旧跡帳にも載りては
んしやうせり
訳:)はじめは笹(の木々)の中の小さな祠だったが、元禄八年(1695)に
初めてお社を造立し、『江戸旧跡帳』にも取り上げられて
繁昌しました。
江戸名所図会には、柳原封疆(土手)の項に”堤の下に柳森稲荷と称する叢祠あり”と記載があるのみ。上記の絵図も柳原堤が主な景色であって、稲荷はさりげなく描かれている程度で、徳川家から社殿の寄進があったからには崇敬あってのことだろうが、それにしては掲載されている書籍が少なく、積極的に掲載されていない節がある。稲荷百番付に取り上げられた106社の内のひとつであることから、ある程度信仰を集めていたとは思うのだが。
境内社
明徳稲荷神社
秋葉大神
厳島大明神・江島大明神
金毘羅宮
福寿神 おたぬきさん
五代将軍徳川綱吉の生母桂昌院によって江戸城内に創建された。八百屋の娘が家光の側室となって次代将軍の生母となったことから、大奥女中から厚く信仰されていた。後世向柳原の旗本瓦林氏の邸内に遷されたものだという。
おたぬきさんを祀るのは他にも、上野東照宮の名誉権現、浅草寺の伝法院鎮護堂がある。東照宮の方も大奥に因んだ由来がある。
御由緒
境内掲示より字体改行などそのまま記載
おたぬきさん 福寿神御由来
江戸開府以来、年と共に諸制度も完備し
て、漸く泰平の世を迎えた五代将軍徳川綱吉公
の御代、将軍のご生母桂昌院様によって江
戸城内に福寿いなりと称して創建された。
桂昌院様は、京都堀川の生まれ、八百屋
の娘が春日局に見込まれて、三代将軍徳川家光
公の側室となり、五代将軍徳川家綱吉公のご生母
となる。
大奥の御女中衆は、他を抜いて(たぬき)
玉の輿に乗った院の幸運にあやかりたいと
こぞってお狸さまを崇拝したという。
後世、元倉前甚内橋際 向柳原の御旗本、
瓦林邸内に祠を移し祭祀される様になり、
明治二年現在の柳森神社に合祠されました
開運、諸願成就の福寿神として、殊に近
年は他を抜いて受験、勝運、出世運、金運
向上などにご利益があると信奉されており
ます。
なお当社において頒与する、”おたぬきさ
ん”と呼ばれる土製の親子狸のお守りは、
素朴で、たいへん愛されております。
稲荷社
本社殿の高欄に立て掛けられていた高札と、掲げられた奉納額に、芝増上寺にあった幸神社(稲荷神社)の由来が記されていた。その由来(昔の人が言うところの)合祀が、本殿の祭神としての合祀なのか、境内末社のこの稲荷として遷したという意味なのかまではわからないが、当社境内末社として移されたのであれば、このお稲荷さんが幸神社なのだろう。
幸神社
ただおもしろいことに、芝公園にある幸稲荷瘡護神社(幸神社と瘡護神社を併合)もまた、芝増上寺拡張に依って移転させられたと、同様の由来を持つ幸神社である。
幸神社といい、当社の福寿神と上野の名誉権現、浅草と牡丹の黒船稲荷、蔵前の揖取稲荷と東日本橋の矢之庫稲荷等、本末関係や分霊でもないのに由来が似通っている神社が割と多い。
幸神社の御由緒1
境内掲示より字体改行などそのまま記載
幸神社由緒 柳森神社合祭社
應永元年春武蔵国豊島郡岩村(今の芝公園の辺)
に創建岸の稲荷と稱した 德川氏江戸入府と
共に村は武家屋敷亦市街地と変り正德の頃卯
月卯日の祭禮は盛況を極めたと云ふ 此頃
氏子町家に吉慶の事多く歓喜の余り幸稲荷
と尊稱する様になった
德川氏芝増上寺建立に当り其の社地移転を
命ずる事三度に及び享保六年(今より二百年前)岸
町三島町永井町等は神田に代地を得て移住
した当時此の辺りは諸大名の馬場下級武士の
家寺院等多くありし所にて此の時以来神田
商業地の繁栄の基を開いたと云ふべきである
明治五年新政府の町名区画整備の時近隣各町
と共に東松下町富山町となし今日に及ぶ
昭和四十五年五月吉日
幸神社遷座二百五十年記念
幸神社の御由緒2
境内掲示より字体改行などそのまま記載
幸神社御由緒拔粋
幸神社は元芝増上寺大門付近にあり岸いなり幸稲荷等と称
されていました。ご創建は第百代後小松天皇の御代、足利義満⚫︎⚫︎⚫︎
と同じ頃とされています。増上寺の寺域拡張の為、岸町の住人は神田に
代地を受けて移りました。今の富山町の一隅に一祠を建立し富山町東松下町五百余戸
の氏神と祀りました。昭和二十年太平洋戦争一段と激しくなった頃、堂守⚫︎の某が
暮夜密かに柳原宮司を訪ね、着物の袖に巻いた御神璽を示し、戦災からお守り
できなくなったので、こち預かってほしいとのこと、一度は断ったが再三の頼みによりお受
したのですが、その直後の空襲で富山町東松下町一帯が灰燼に帰してしまったのは単なる
偶然だったのでしょうか。 正式には昭和二十二年当社に合祀されました。
神楽殿
本社殿の左隣。
神楽殿の下に御朱印が置かれている。押印はセルフ式なので、使用後は蓋を閉めてほしいとのこと。参拝当時は気付かなかったが、この奥の社務所でおたぬきさんの御守り(陶製のたぬき)を授与してくださる。
力石
御手水の後方に並べられていた。目視できる範囲で最も重いものは五十貫目(187.5kg)。
淺間神社
前回来たときは気付かなかったが、階段下に富士塚があった。
塚には「神田八講」「神田講社」の碑以外に、「小御嶽大神」「三柱の大神」と刻まれた碑があり、その下には、浅間大社の神札が立て掛けられた小祠もある。
他にも境内にはおたぬきさまのお像が二体。
たぬきのがデカいといっても、どうしてここまで象徴的なお姿になっていったのか。
どうもその由来は、箔師が金箔を作る際にタヌキのなめし革を使う事で、箔が八畳ほどにまで伸びるのだそうで、ここから”狸の金箔八畳敷”と言われるようになり、どこからともなく”狸のキン○マ八畳敷”と広まったようだ。
写真は、2008.7.19、2017.1.21 撮影
備考
社号 柳森神社
別名 柳森稲荷
祭神 倉稲魂大神 くらいなたまのおおかみ
創建 長禄二年(1458)
祭日 二月三日節分祭
五月十五日前後の土日例大祭
末社 明徳稲荷神社 秋葉大神社
厳島大明神・江島大明神社 金毘羅宮
福寿神社(おたぬきさん) 幸神社
浅間神社(富士塚)
社務所 御朱印授与有(セルフ式)
所在地 東京都千代田区神田須田町2-25-1
その他 太田道灌創建