今回の参詣は、浅草の富士浅間神社へ。



ここは浅草寺裏手の言問通りから300mほど北側に位置し、古くは浅草田圃と呼ばれていた地域。江戸時代初期に吉原が移転して来ようが、膨大な数の寺社が移転して来ようが田畑ばかりだった。


前回の待乳山聖天 の項で待乳とは真土のことと記したが、ここ浅草・鳥越・石浜一帯は、中世以来千束郷と呼ばれ、稲千束に因んだ名で、真土は土質の良さ、千束は収穫高の良さを表していると思われ、古くから田畑に適した良質な土地だったようだ。









上記のような土地柄のため、周辺には稲荷社がとても多い。

だからこそ、そこになぜ対照的な富士信仰の浅間社(山の神)が祀られたのかが不思議なところ。


御由緒によれば、創建からしばらくは三好町(現・蔵前二丁目)に鎮座していて、創建年代は分かっていないらしいが、寛文十一年(1671)の江戸絵図に鳥居の表記があり、そのころまでには創建していただろうと思われている。





手水舎


龍の吐水。

立派な龍だが鉢の中は空っぽ。









御本社


神社の神体といえば鏡や幣帛が多い中、当社は木造の木花咲耶姫命坐像が御神体として安置されている。


幕府の命によってこの浅草の山に見立てた小高い丘に移されたまでは分かっているが、遷座した年代もまた明記されていない。






御由緒 境内掲示より字体改行などそのまま記載


浅間神社(浅草のお富士さん・台東区有形民俗文化財)

       台東区浅草五丁目三番二号


 浅間神社は、富士山への信仰に基づき勧請された神社で、神体として「木造木花咲耶

姫命坐像」を安置する。

 創建年代は不明だが、『浅草寺志』所収「寛文十一年江戸絵図」に表記があり、江戸

時代初期の寛文十一年(一六七一)までには鎮座していたようである。現在の鎮座地は、

約二メートルほどの高みを成しているが、中世から江戸初期にかけて、関東地方では

人工の塚、あるいは自然の高みに浅間神社を勧請する習俗があったとされており、

当神社の立地もそうした習俗に基づくものと思われる。

 江戸時代には浅草寺子院修善院の管理のもと、修験道による祭祀が行われ、江戸を

代表する富士信仰の聖地として、各所の富士講講員たちの尊崇を集めた。明治維新

後は浅草寺の管理を離れ、明治六年には浅草神社が社務を兼ねることとなり、現在に

至っている。

 本殿は、平成九・十年の改修工事によって外観のみ新たに漆喰塗がほどこされたが、

内部には明治十一年建築の土蔵造り本殿が遺されている。さらに、この改修工事に

伴う所蔵品調査により、江戸時代以来の神像・祭祀用具・古文書などが大量に確認さ

れた。

 これら、本殿・諸資料群・境内地は、江戸時代以後の江戸・東京における富士信仰の

ありさまを知る上で貴重であり、平成十一年三月、台東区有形民俗文化財に指定さ

れた。

 祭礼は、毎年七月一日の「富士山開き」が著名で、また、五・六月の最終土・日曜日

には植木市が開催されている。

  平成十二年三月

  台東区教育委員会








絵馬所


桜(木の花)が咲くように美しい女性という意味を持つ名に因んでだろう、桜花の形をした絵馬が奉納されている。









訪れたのが9月とあって境内は寂しい限りだが、4月にもなればきっと浅草の中でも一番の景色になるのだろう。


季節毎に名勝になるような神社仏閣をその内まとめてみたいところ。







写真はすべて2013.9.1撮影


備考

社号 浅草富士浅間神社

祭神 木花咲耶比売命 このはなさくやひめのみこと

創建 元禄年間(1688-1703)又はそれ以前

祭日 七月一日例大祭

末社

社務所

所在地 東京都台東区浅草5-3-2

その他 浅草神社の兼務社