今回の参詣は、内神田の御宿稲荷神社へ。


大手町から程近い内神田(ちょうど旧鎌倉町と三河町の間)に鎮座し、徳川家康が立ち寄り、この付近で宿をとったことで名づけられたのが御宿稲荷の由来。



あれだけ巨大なオフィスビルが乱立する大手町とは打って変わって、外堀通りを挟んだ神田側は、急に下町感が出てくる。









千代田区教育委員会発行の書籍「千代田の稲荷 」によると、徳川家康が関東移封の際、宿をとったのが武蔵国豊島郡神田村、現在の内神田一丁目だった。後年江戸幕府は、その宿となった邸宅に祀られていた祠を記念として、「御宿稲荷神社」と称して社地を与えたという。


社号の読みは、オヤド・オンジュク・オンヤド・ミジク・ミシュクなど、昔から様々に呼ばれていたらしく、定まっていないらしい。



戦後、社殿を焼失するも、神体は無事で、昭和三十一年(1956)二の午の日に落成。

現在の社殿は平成18年(2006)に新築されたもの。


祭礼は、平成15年(2003)まで3月の午の日だったが、今では2月の初午か二の午に行われている。神田神社境内末社であり、かつて同じく旧鎌倉町にあった浦安稲荷神社と合同で神事が行われているとのこと。







御宿稲荷神社御由緒 境内石碑より字体改行などそのまま記載


神田區三河町壹丁目鎮座御宿稲荷神社ハ天正ノ

昔徳川家康公關東移封ノ際武藏國神田村ノ郷士

ノ家ニ授宿セラル其庭中ニ宇迦●御魂ノ神祠ア   ●=能の旁が去

リ後幕府ヨリ公ノ足跡ヲ止メラレシ紀念トシテ

社地ノ寄進有ケレバ茲ラ廣ク世ニ御宿稲荷ノ大

神ト崇メ奉レリ。尚徳川氏江戸城ニ入城セラレテ

ノチ此地ニ三河國ヨリ臣下ノ永住スル者年ト共

ニ増加シ遂ニ三河町ト稱スルニ至レリ大神ニハ
爾来衆庶ノ崇敬歳月ニ加ワリ神徳灼トシテ輝キ

又今回崇敬ノ人人相議リ時代ノ推移ト共ニ事跡

ノ散逸センコトヲ考慮シ神殿ノ改修ト共に其縁

起ヲト乞ハルル儘ニ謹ミテ一言記シ奉リヌ
 昭和八年五月十五日 社掌 髙橋國憲 霞峯吉田彦書









手水鉢







 

狐像は、右が子抱き、左が宝珠を抱える。

2月中旬に訪れた際には、右の狐像には椿が、左の狐像には梅が咲いていた。






鎌倉町の歴史

天正十八年(1590)、豊臣秀吉の命により徳川家康は江戸に入る。当時の城は、室町時代の武将太田道灌が築いた城塞を後北条氏が整備しただけのもの。慶長八年(1603)に征夷大将軍になった家康は、江戸に幕府を開き、江戸城改築と合わせ町の整備も次々と行う。


そのころからこの付近の河岸には多くの材木石材が相模国から運び込まれ、鎌倉から来た材木商たちが築城に使う建築部材を取り仕切っていた。そのための荷揚場が「鎌倉河岸」と呼ばれ、それに隣接する町が「鎌倉町」と名付けられた。


築城に際し家康が近江から連れてきた甲良家は、鎌倉町内に宅地を与えられ、以後代々この地に住み続けた。

甲良家は、作事方の大棟梁として、江戸城をはじめ増上寺、日光東照宮などの幕府関連施設の建設に尽力。鎌倉町は大江戸八百八町の中でも、とりわけ幕府との関わりが深い町だった。










写真は2010.2.13と2014.11.23撮影


社号 御宿稲荷神社

読み オヤド・オンジュク・オンヤド・ミジク・ミシュクなど

祭神 宇迦能御魂ノ神

創建 江戸時代前期

祭日 二月の初午か二の午の日

末社

社務所 神田神社の兼務社

所在地 千代田区内神田1-6-8