今回の参詣は、柳橋の篠塚稲荷神社へ。


当社は、正平年間(1300年代半ば)には既に稲荷社として存在していて、鎌倉府討幕の立役者

新田義貞の側近で四天王の一人にもあげられる武将、篠塚伊賀守重広が由来の神社。


かつては第六天社(現蔵前1丁目の第六天榊神社)が、森田町から篠塚稲荷の2~3軒

西隣に遷座してきたため、当社のあるこの地も、第六天門前町といった。










現在、ここ柳橋の地名は、元禄十(1967)年に架けられた柳橋にちなむ。
柳橋は、江戸初期には船の貸し出しをする舟宿が多く集まり、しだいに花街を形成していき、

江戸市中の商人や文化人の奥座敷、また風光明媚な街として栄えていった地。


柳橋芸者は、唄や踊りで立つことを誇りとして非常にプライドが高かったという。


また、かつては『柳新二橋/りゅうしんにきょう』と称され、新橋と同様、東京を代表するまでに発展した。

実際は柳橋が格上で、合同の場合は新橋芸者が柳橋芸者の三寸後ろへ下がり、柳橋が三味線を弾き

始めないと、新橋は弾けなかったという。

第二次世界大戦を経て、戦後復興していくも、隅田川の後に造られた護岸堤防が景観を損ね、しだいに

衰退して、平成に入り、ほぼすべての店が廃業し終焉を迎えた。









柳橋からの眺望。

今も船着き場がのこる。多くが屋形船で、現在も宴会や納涼など利用されるている。

それにしてもすごい数。









橋を渡って最初に見えてくるのが、明治の政治家や財界人が愛した創業150年の料亭亀清楼。

また、タニマチにつれられて、力士の出入りも多かったようだ。

そんな亀清楼も、現在の柳橋では唯一残ってる料亭か。

安政元(1854)年、亀屋清兵衛が創業。嘉永年間に発行された料理茶屋番付には、万八樓

と並んで人気のあった店として紹介されている。

明治になり万八樓廃業後は、亀清樓がその跡地を買収、新築した。









『江戸高名会席盡 柳はし夜景』に二階建ての万八が描かれている。

隅田川の位置と橋の向きなどからいっても、万八の跡地が現在の亀清楼で間違いなさそう。










外観は社殿と神楽殿らしき建物とが一体となっている。

正面から見ると、後から社殿を半分削って神楽殿を建て加えたようだ。










当社は新田義貞四天王の一人とも言われた、側近の篠塚重広が戦に敗れ放浪の後、

当地にあった稲荷社に、来国光という太刀を捧げ、主家再興の祈願を続けたことに

由来し社号を篠塚稲荷とする。










今では御祭神は倉稲魂命とあるが、御府内寺社備考によれば、祭神は咜枳尼天。

御神体は、白狐に乗る姿の木像。相殿に不動明王と天満宮。祭礼は二月初午と、

正月五月九月に御湯花神楽という行事があった。

現在は、来国光の太刀はもちろん、御神体の木像は見受けられない。










玉垣には周辺にかつてあった料亭の屋号や芸者の名が残る。

花柳章太郎は、下町の神社はもちろん、新宿の於岩稲荷など多数の神社で散見できる。

そして横綱朝汐太郎の文字。花柳章太郎の年代と横綱と書いてあることから三代目の朝潮のことか。


玉垣に記された店名や人名を見ると、建築当時の神社と地域住民の関わり合いを偲ぶことができる。

そんな情緒につかることも、参拝の楽しみのひとつ。











篠塚稲荷神社 社歴(石碑より) 旧字体、改行などそのまま記載


 御祭神 倉稲魂命

 例祭日 六月初旬


  御由緒

当社の創起年代は詳らかでないが古記に「大

川辺に高き丘あり篠生い茂り里人ここに稲荷

神を祀る」とあれば悠久の昔より奉斎し奉り

あり

正平年間新田義貞の家臣篠塚伊賀守重廣主家

再興の祈請をなし来国光の刀を神前に捧げ社

傍に庵を結びて出家し日夜参篭怠らず為にい

つしか篠塚稲荷大明神と尊称するに至った

延宝九年三月神社別当僧たる伊賀守子孫に醍

醐寺三宝院御門跡より篠塚山王蔵院宗林寺の

称号を賜り元禄六年二月本多紀伊守殿寺社奉

行の折には御府内古跡地と定められたが明治

初年神仏分離の際王蔵院は廃せられた

古来より商売繁昌火防神として厚く尊崇奉る








旧玉蔵院は、篠塚稲荷の別当を務めるだけでなく、寺子屋(後の篠塚小学校)も運営。

しかし明治の廃仏毀釈により廃寺。篠塚小学校も大正十一年には廃校になってしまう。




社号 篠塚稲荷神社 しのづかいなりじんじゃ 別名篠塚大明神

祭神 倉稲魂命 うかのみたまのかみ かつては咜枳尼天

神体 幣帛 かつては白狐に乗った咜枳尼天木像

創建 正平年間(14世紀)以前 

祭日 六月第一土曜日、日曜日

狐像

末社

社務所

住所 台東区柳橋1-5-1