もう2年、まだ2年でしょうか。
あの日は、
5月の舞台のリハーサル中に
地震がおきました。
ジャズを踊る若い子たちの中だったのですが
彼女たちの踊る振動にしては
大きすぎるな と 思った矢先の地震でした。
一番にドアをあけて
靴をはいて
即着替えて。
ワンセグをつけて、
待機しているなか
何度も何度も揺れました。
続くリハーサルの中、
わたしはいつでも逃げれるように
真っ先に着替えて荷物をまとめて
老化の植木鉢をどかしたり
倒れたりしたらいやなものをよけたりしてました。
幸か不幸か
そこは公共施設だったので
すぐに出されました。
いや、出されなかったらリハは続いていたと思います・・・。^^;
電車もバスもストップ。帰るに帰れず。。。
駅前のスタバもロイホもどこもすぐに閉店。
駅前は 長蛇の群れ。
どんどん冷え込んでゆく夕方。
シャノアールだけは営業を続けてくれていて
揺れているのに
普通に接客しているスタッフさんたちが
妙に印象的でした。ありがたかったな。
近くのスーパーで
お水やパンやお菓子などを買って
パスタだっけ?なにかを食べて
珈琲を飲んで待っていたと思います。
2時間弱くらい いさせてもらったのかなぁ。
電車はいずれも復旧見込みなし、ということで、
マロンはひとりでおうちにいるし、
歩いて帰ることに。
風が強くて
とても寒い日でした。
この日はでがけに
ヒールとスカートから
デニムとスニーカーに着替えていたのだよな・・・。
動物のカンというかなんというか。
自分の直感と行動をほめてよいなと感じた一件でもありました。
でも、マフラーを忘れていたので
ベリーダンスで使うシルクベールを首に巻いて
6時間かけて
調布から白金まで歩いて帰ったのでした。
当時、シルクベールはいつもわたしのバックに入っていたからね。
帰り道の甲州街道は
人々が殺気立って
殺伐としている半面、
「お手洗いどうぞ」とか
張り紙をだしてくれているお店があったり
ワインをあけてる女子会グループがいるレストランを通ったり
からっぽなコンビニや
公衆電話に 列ができていたり・・・。
もう ワンセグもつながらなくて
状況もなにもわからず。
途中末の妹だけは早いうちに連絡がとれ
彼女が実家の家族の安否を確認していたので
安心してましたが
情報もなく
なにもわからないで
もくもくと歩いているときに
関西からのメールは届いたり して。
渋谷あたりまで近づくと
若い人が多いので 殺伐感がなくなり
「銀座線が動いたらしい」とか
いろんな情報が
明るい声で聞こえたりして。
後半は
寒いのと
足が痛いので
もう声も出せないくらいだったけど。
けれどもなんとかその日のうちに
家についたのでした。
マロンは元気でした。
でも くらいとこで ひとりで
何度も揺れて怖かっただろうな・・・・。
自宅は冷蔵庫や食器棚が
少し動いてていたくらいで・・。
いや、実際は驚くべき冷蔵庫の移動でしたが、のちにこのくらいはたいしたことでもないと知ります。
ちょっとしたものが散乱していた記憶があります。
テーブルの鏡が床に落ちて、割れていたっけ?
それでも家があって
そこに歩いて帰れたことは
なににも変え難いことだったのだと
思います。
今も
生きているというよりは
たぶん生かされているのだと
思います。
今日できること、
目の前のことに、
真摯に取り組んでいくことを
命なくなる日まで
続けてゆくこと、
そんなことを思いました。
今日はあの時間に
電車が一斉に止まりました。
黙とうを捧げます。
復興を祈ります。