技術者は一生勉強を続けなければならない | ごく普通の技術系サラリーマンの一生

ごく普通の技術系サラリーマンの一生

成功体験なんか役に立たない。
定年退職を迎えた普通のサラリーマンの一生を振り返り、会社生活の裏側と本質を書き綴ります。

私が学生時代に学んだ電子回路は真空管がベースだった。
勿論トランジスタやFETも記載はあったが、勉強の中心ではなかった。
パソコンなど無く、学校のあちらこちらにミニコン(Melcom)の端末があった。学生時代に習ったプログラム言語はFOTRANで、カードで入力する物だった。
 

私の専門分野はアナログ高周波で、デジタルの世界には生理的に拒否反応を示していた。
卒業までの間、コンピュータには授業以外ほとんど近寄らず、全く知識を習得しなかった。

J社時代はビデオ回路を中心としたアナログ回路を習得した。
会社の方針で、デジタルの基礎と機械語だけは強制的に習わされた。
専門以外の知識も徐々につけて行った時期でもあった。
(印刷物の作成、校正、図面の製図、トレース等)

Y社時代も最初は似た様な感じだった。
しばらくして、生まれて初めてパソコンを使うようになった。
最初は趣味の世界からだった。仕事とは全く関係なかった。
当時は勿論MS-DOSの時代で、プログラムの開発を覚えたのもこの時期だ。
初めて覚えたプログラム言語はTurbo-Cで、MS-Cより開発が容易で見栄えの良い物が簡単に出来た。
友人の勧めで、実はこの時開発したプログラムは2本だけ販売して見た。

しばらくして時代はWindowsに移った。
何かWindowsのプログラムを覚えたくなり、Visual BASIC(当時のバージョンは6)を覚えた。
この時作成したプログラムはシェアウェアとして公開したが、20年以上経った今でも、たまに売れてる事が驚きである。

少し時代は戻るが、Y社で初めて電気系CADを用いた基板設計を推進したのは自分である。この時に、初めて電気CADと言う物を覚え、基板の実装設計を習得した。
実は覚えたてのVisuar BASICで作成したソフトと言うのが、この電気CADの拡張ユーティリティーだった。

AC社から戻ってから、業務の必要性に合わせてDelphi(object pascal)とMicrosoft SQLを習得した。
この時にMicrosoft SQLを習得した経験はかなり大きく、今でも随分と役に立っている。

(現在はMySQLをメインで使ってる)

その後何度かY社で新事業開発を任されるが、その際試作品程度の筐体設計は出来るようになった。
デザイン用に安価なCGツール(shade11)を使い始めたのもこの時期だ。
業務の内容に合わせ、少しづつ多方面の知識を習得して行った感じだ。

現在は、ソフトとしては、Visual StudioでASP.NET MVCでWEBアプリを作れる程度にはなった。
(IIS、C#、JavaScript、HTML等)
CGのソフトも多方面で使い続けており、現在はBlender2.9を活用している。
現状を見直すと、デジタルやプログラムと言う物に生理的に拒否反応を示していた自分が、と言うのが笑える。

私が管理職をする様になったのはAC社から戻って来た頃からであり、当時それぞれの得意分野を持ち合わせた、なかなか個性的なメンバーばかりが集まった部署だった。

私は当時はすでに様々な経験を持ち合わせていた為、どの方面のエンジニアに対しても一応の指導はできた。
その為長い間、プレイイングマネージャーと言う位置付けで業務を続けてきた。
ただ、純粋なマネジメントと言う意味ではかなり劣っていたのでは、と、反省している。
マネジメントの経験など無く、誰も指導してくれなかったからだ。

とは言え、当時は実際には仕事は回っていたし、多数の実績も上げて来た。
こう言う形の管理職もあったと言う事だ。

纏めると、今までの私は、自分が技術的な指導を適切に行う事で管理職を貫いてきた。
だが総てのジャンルを完璧に理解する事は実際には困難である。
しかし、その抜けてる部分は実績と経験でどうでもなる事を身をもって経験した。

この40年で学んだ専門知識は、実はここでは書き表せない程多い。
しかし一つでも足踏みしてしまうと、その先は全く追いつけなくなってしまうと言う恐怖が常にあった。
私は常に最先端の技術習得を続け、最先端の情報を探り続けて来た。これは、一生技術者として生きて行く為には、避ける事が出来ないマストの行動だと思っている。

実は私の年代では大きく2種類の人間に分かれている様に感じている。

1つはパソコンを使いこなし、バリバリと前線で活躍している人間、
もう1つは、
Excelの使い方すらわからず、部門のお荷物になっている人間である。