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BELLE CORTスタッフブログ

マンスリーマンション・リフォームでおなじみの「ベルコート」スタッフブログです。

こんばんわ、ベルコートの瀬尾です。

今年も早いもので、もう3月1日ですねぇ。

本日は、193年に気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)が

皇后となった日であります。このお方が神功皇后と呼ばれる方で

彼女は、様々な伝説を造り上げました。旦那の仲哀天皇があまり

政務を行うことなく亡くなり、その後しばらく間天皇に空白期間が

あったため、自身が政務を執り、更に後に第15代天皇応神天皇

をお腹に抱えたまま、所謂三韓征伐(新羅・高句麗・百済)を行った

という強い女性です。また、その伝説から卑弥呼か?とも言われた

方です。

この当時は、古代王朝の様々な伝説やヒーローが目白押しな

ので、あらためて記事を載せたいと思います。


さて本日は日本建築史の最終として、江戸時代の明地について

江戸の町には、至る所に明地(あきち)があったそうです。

町の中にも、川の縁にも、交差点にも、さまざまな明地がありまし

た。基本的な機能は、火除のためでしたが場所によってさまざまな

使われ方がされていたようです。

会所地は、町で囲まれた明地です。江戸の市街は、60間四方の

碁盤目状に区画されていていました。ここの屋敷地は、街路に面し

て20間に一定された奥行をもっているため、中心に20間四方の

明地が生まれました。ここが会所地です。ここは、各家から流れ

出る下水の最終処分場となり、ゴミ捨て場になるのが普通でした。

しかし、その後ここを貫通する道が通されたため、利用価値が増

えました。

広小路を明地とするところもありました。しかし、人の往来が盛んで

床店が並べられたり、大道芸人が芸を競う場所でもあったため、

本来の目的は影を潜んでしまいました。

堀や川に沿った河岸端も明地でした。その形状を利用した弓の稽古

が行われたり、船から揚げた荷物が置かれていました。しかし、占有

することは禁止されていて、たびたび禁令が出されていました。

火除地は、防火のために特に指定された明地です。会所地や広小路

も防火のための場所でしたが、火災を受けた広い範囲の焼跡を火除

地にするのが普通でした。

いずれの明地も江戸の町の一部として都市生活の場を提供してきた

ことは事実のようです。

本日はこれまで、次回からこのシリーズはとっておきの城郭建築に

ついて記事を載せたいと思います。





こんばんわ、ベルコートの瀬尾です。


2月28日は、1591年の本日、千利休が豊臣秀吉の命により自刃

を命じられた日であり、そしてその後、茶頭・古田織部が、

自分で焼いた茶器を用いて茶会を開いたことから、織部の日と

言われるようになった日であります。

また、1953年吉田茂首相が衆議院予算委員会で「バカヤロー」と
発言し、3月14日に内閣不信任案が可決し衆議院解散をした“バ
カヤローの日”でもあり、1972年連合赤軍あさま山荘事件で、機動
隊が山荘を破壊して隊員が突入し人質を救出。メンバー5人全員を
逮捕した日でもあります。
いずれも当時の社会に影響を与えた日といえますね。

さて、本日は日本建築史 絵画資料について

絵画資料が建築史に及ぼす影響は、かなり大きいと思われます。

歴史的な都市といわれる場所でも幕末を遡るのがやっとの現実で、

絵画資料のもたらす視覚的情報は貴重な資料です。従来は文献

資料を中心に復原がなされてきましたが、文献だけでは具体的な

情報にかけることは否めません。
絵画資料を歴史的な資料として用いる場合は、いくつかの注意が

必要です。まず、「絵」だということ。あたり前の話ですが、写真とは

違って、そこに描かれた情報が全てではないということです。ある

時代に描かれた絵画だとしても、その時代にはない建物があったり、

あるはずの建物がなかったりします。これは、絵師が注文主の意図

を反映しているからであり、「なぜ、この絵画が描かれたのか」を読み

ほぐさなければなりません。それと絵師は、建築の専門家ではないの

で、様々な部分がデフォルメされていたり、省略されていたりします。

その絵画にとって必要のないものは、ことごとく消去されてしまいます。

絵画資料を建築史に用いるためには、細心の注意が必要です。
昭和の初めにこの分野の研究が始まり、近年の研究の成果によって

絵画資料のもつ情報が不明瞭だった近世都市の様子をだんだん明ら

かにしてきました。

有名な絵画資料に「江戸図屏風」、「江戸名所図屏風」、上杉本「洛中

洛外図屏風」などがあります。

本日はこれまで、次回は江戸時代にたくさんあった明地について

こんばんわ、ベルコートの瀬尾です。


本日2月27日は673年大海人皇子が即位し第40代天皇

天武天皇に即位した日であります。壬申の乱(672年)で

大友皇子を破り即位しました。兄は大化の改新の天智天

皇であると言われていますが…

また、1657年徳川光圀が『大日本史』の編纂に着手した日

でもあります。完成は250年後の1906(明治39)年ですが…


さて、本日は日本建築史 武家屋敷について

武家屋敷とは、特定の様式をさすものではなく、城下町に

おいて、武士が居住した家屋敷全般を指します。様式は、

ほとんどが主殿造を基本としたものでした。しかし、1600年

ごろから書院造へと移行していきます。

このときに機能上にも二つの変化がおきています。ひとつは、

対面の形式。もうひとつは住居機能が中心となる建物から

分離したことです。これは、江戸時代の「お成り」の影響が強い

と思われます。


書院造とは

主室に座敷飾りの床(とこ)・違棚・書院・帳台構を備えた建物の

様式を書院造といいます。柱は四隅の面を取った角柱で、畳を

敷き詰め、建具は引き違いになりました。内部は完全な「部屋」に

別れています。主殿造りまでは、間仕切りをしていても上部が開

いていましたが。
平面は、対面の作法が大きく変化したためそれに伴い様変わり

しています。中世までは、南面中央の部屋で庭に向かって客が

座り、出迎えた主人は、庭側に対峙していました。近世になると

対面が2~3室にまたがり、相対的な位置関係が格式によって

細かく決められるようになりました。そのため、主室は、南面の

一番奥になりました。


本日はこれまでとします。次回は絵画資料が建築に及ぼす影響

について記事を載せます。