こんばんわ、ベルコートの瀬尾です。
3月12日本日は、1352年に足利直義が鎌倉・延福寺で
兄尊氏に毒殺された日です。尊氏の長男義詮に将軍の
座を譲りたいがための毒殺と言われていますが、私個人
としては、義直は足利の時代が続くために、自ら毒を飲ん
だ、と思えてならない事件です。太平記を読むと、足利義
直という方は、素晴らしい人物として描かれています。
また、 1590年に小田原攻めの先鋒徳川家康の先陣として
本多忠勝・榊原康政・井伊直政らが出陣し、小田原征伐の
幕が切って落とされた日でもあります。言わずと知れた、
秀吉の天下統一の総仕上げの戦であり、“小田原評定”と
いう言葉ができたのも、この戦でした。
さて、本日は日本築城史 城柵について
城柵とは、7世紀から11世紀までの古代日本に築かれた
防御施設のことです。歴史学上では特に北東と南西
の辺境に置かれた政治行政機能を合わせ持つものに限って
いうことが多いらしいです。個々の城柵は、坂上田村麻呂が
築柵?したという「多賀柵」など柵の字を付ける場合と、「多賀城」
など城の字を付ける場合もあり、城も柵も「き」と訓じていたそう
です。北東は蝦夷、南西は隼人に対する備えとして置かれ、対
朝鮮・中国の城に比べると防備が弱く、行政施設としての性格が
強いのが特徴です。
他の地域から、柵戸と呼ばれる強制的な移民が行われ、彼らを
公民として郡が設けられ、公民は城柵に保護される一方、租庸調
・兵役・労役などを負担し、城柵を支える基盤となりました。また、
服属した蝦夷は、後に公民となって姓を与えられ、課役を賦課され
ました。
律令制支配が浸透せず、まだ国家に服属しない、より北方の世界
の人々とは朝貢関係を保ち、物資の交易を行うことも重要な任務の
ひとつで、朝貢・交易を通して、当時はそれらの人々の住む村々を
統轄することも必要でした。さらに、沿海州方面の政治的情勢にも
国家として対処しなければならなかったため、城柵の中央部には、
国府政庁に類似する構造の政庁があり、その周囲に実務的役割の
建物が配されていました。
それらの外周を築地、柵木、土塁などの外郭区画施設で囲み、それ
には櫓状建物が付設されることもあったそうです。
政庁があるのは、城柵に中央からの派遣官が駐在して政務や儀礼を
執り行うからであり、外郭施設や防禦施設があるのは、城柵が軍事的
性格をも合わせ持っているからでもあります。
城柵は、国家が北の辺境においてさまざまな政策を遂行するための拠
点として造られた、行政と軍事の機能を合わせ持つ施設であったので
す。
世間一般で言う“城”とは程遠い構造でもあったため“城柵”と言われてい
ます。でも当時としては、立派な“城”であったのでしょうね。
本日はこれまで