以前、チャンネル桜で真相を語ると奥様が出た番組で、さかき蓮さんのブログなどについて水島氏が話を振って、奥様が答えていましたが「ウチの事ではない」ということで否定的でした。
 
今回、三橋氏の事件を扱った二つの番組、インタビューや三橋氏のブログで繰り返される「DVではなく夫婦喧嘩」が行き過ぎたという主張、そして、噛みついたのは赤ちゃんを守るため、平手打ちは一回だけ、きっかけは些細な口喧嘩で妻からの酷い言葉にカッとなった、妻は気が強い、若く、育児ノイローゼ気味・・・2人で夫婦カウンセリングを受けてます、どの番組の聞き手も三橋氏の主張に疑問は挟まない、夫婦喧嘩って本人達も言ってる、反省してるし、見守ろうという空気が作られました。
 
そこには「お酒を飲まなければそうはならないと思う」という奥様の主張は「お酒を止めると言ってる」「夫婦カウンセリングを受けている」ということで、完全にスルーされている上、現在では奥様には警察への「通報癖」があることになってしまいました。
そして三橋氏のDVの定義である「監禁して毎日ボコボコに殴る等の暴力を繰り返す、洗脳する」には当たらないからDVではない「夫婦喧嘩です」に落ち着き、チャンネル桜やネット番組はその主張に同調して三橋氏の復帰となったようですね。
 
監禁も毎日の暴行や洗脳も無いからDVではない、という三橋定義とは異なる視点のさかき蓮さんの”一般的なDV”についての考察を見てみましょう。
 
DV加害者の二枚舌と“共犯者の存在” 2015.06.19
 
DV・虐待について勉強することを、私はライフワークのひとつとしている。
たとえば、ある人物が、公の場では「同じ共同体の仲間と助け合おう」と堂々とのたまいながら、しかし私的な場面においては、もっとも小さく身近な共同体である「家族」の仲間に対して平気で暴行や虐待を加えているとしたら、どうだろう。
まず確認しておきたいのだが、DVや虐待の意味するところは、「家庭内のいざこざ」というよりも「殺人未遂」という方がより真実に近い。
一部のひとが“勘違い”しているような、「痴話喧嘩」「しつけが行き過ぎた」などでは断じてないだろう。
つまり、「三年間にわたりDVを受けた人」とは、「1095日もの間、毎日、人殺しによっていたぶられてきたが、たまたま死ななかった人」とも言えるのだ。
しかし前述の“勘違い”については世間へ意外なほど広範に浸透しているようで、だから被害者の数も減らないし、ヴィクティムが見殺しにされる事例も後を絶たないのかも知れない。
 
DVをする人間の特徴として、少なからずのサディストであることが挙げられる。
 
自分より弱い立場にある者をいたぶり、その弱者が「泣いたり」「痛がったり」「許しを乞うたり」するのを見ることによって、自分の「快楽獲得」や「ストレス発散」や「自信回復」を成功させている。
しかし同時に、多くのDV加害者は、公の場においては非常に人当たりが良いのである。
サディストどころか、柔和で誠実な人物像そのものに、さらには「少し気の弱い人」に見えたりもする。
なぜだろうか。
実は彼、この公の場において、穏やかな笑顔や挨拶を周囲にふりまきながら、内心に巨大な負の感情をつのらせているのである。
つまりは「なぜ俺がこんな馬鹿ども相手に頭を下げなきゃならないんだ」という憤懣の鬱積である。
そして鬱積が最高潮になった状態で、彼は帰宅する。するとそこには、自分の飼い犬(つまりは餌も寝床も生殺与奪の権さえも自分が握っている生き物)が“いる”ではないか。
密室であり傍観者は誰もいない今、彼は、本日のすべての鬱憤を弱者にぶつける・・・さて数時間後、彼の気持ちは晴れやかだ! 目の前にはボロ雑巾のような生き物が横たわっているが、水と餌を与えておけば明日にも治っているだろう、と彼は考える。
「このメシは誰のお蔭で喰えるんだ、言ってみろ、クソババア」
「あなたのおかげです」
「感謝しろ。“さっきのこと”は、自分が悪い人間だから叱ってもらったのだと認めて土下座しろ」
「私が悪いからです、あなたは悪くありません、申し訳ありませんでした」
「よし、喰え。俺ほどあんたのことを大事に思っている人間はいない、分かってるよな。あんたは俺の庇護がなければ生きていけないんだ。明日は服を買ってやるぞ」

そして彼は、また翌日も、穏やかな笑顔でもって颯爽と社会へ出ていくのだ。
「ええ、DVなど言語道断です。もしも家族を殴るような奴がいたら、私なら犯人を殺しにいきます。まあうちの妻は気が強いからそんなことはあり得ませんがね、私は完全に尻に敷かれてますよ・・・今日もブランド品をねだられていまして(笑)」(インタビューに答えて)
もうお分かりだろうが、つまるところ、このサディストは天才的な二重人格者であり詭弁家なのである。

二重人格者は、たとえば警官に対しては以下のように答えるだろう。
実は、妻は精神病罹患者で、家事もろくにしない、仕事場でも問題ばかり起こす、ちょっとしたことでも怒りやすくて、愚痴が多く、すぐに私に食ってかかる癖がある。ときには『キチガイ』のように暴れて手が付けられない日もありますから、そうすると私はやむなく抵抗しなければならず、手が当たってしまうこともある・・・つまり今回のことは正当防衛なのです。
しかし、そんな駄目な妻ですが、私は彼女を愛している。だから一生をかけて大事にいくつもりなのです。
この度は、たいした事でもないのに、妻が大げさに騒いで誠に申し訳ありませんでした。警察の方々には、いくらお詫びしてもしきれない。
(腕時計を見て)おや、そろそろ仕事に行かなければなりません、おいとまして宜しいでしょうか? 妻にはよく言ってきかせておきますので
 
だから、ある人物について彼がDV常習犯であることを知りながら「しかし彼の『公の顔』は立派だから、虐待については不問とし、今後も懇意にしていく(または協力していく、もしくは応援していく)」という人がいたなら、それはつまり加害者の殺人未遂の罪を容認したうえ被害者の懊悩を愚弄しているということで、広義においては“人殺しの共犯”と呼ばれても仕方がないのでは、と私は敢えて苦言を呈したい。
 
また共犯者である彼らがDV加害者との派手な交友を続けることは、「被害者は虐待されたと証言しているものの、他の人々が加害者と普通に交際している事実から鑑みるに、被害者の話は『大げさ』もしくは『妄想』で、実はDVなど無かったに等しいのではないか」との“世間の勘違い”を助長する可能性があり、さらには被害者の『学習性無力感』を助長し、被害者の逃げ道を塞ぐ最大の障壁となる可能性があることについても、同時に指摘しておきたいと思う。
たとえば「連続で数十発にわたり殴られても」「口に物を詰め込まれ羽交い絞めにされ、数時間ものあいだ呼吸困難にされても」「何度も繰り返し壁や床に投げられ叩きつけられても」「首を絞められて顔中に点状出血斑が出現しても」「包丁をつきつけられ『殺してやる』と脅されても」たまたま死ななかっただけの人が目の前にいたとき、それでもあなたは加害者と気持ちよく酒を酌み交わせるのだろうか。(引用・さかき蓮ブログhttp://rensakaki.jp/blog/902/
 
2月に出演していた番組で、三橋氏が定義するDVは「例えばこうですよね、私が19歳の女の子を誘拐同然で連れて来て監禁してボコボコに毎日暴力ふるって、それで、洗脳してると、これ、モロDVです」
 
これ以外の行為だった”平手打ちしてしまいました・腕に噛みつきました”はDVとは、「絶対に認めること出来なかったんですけど、なんで認めないんだって感じでいうから、私は自分がやった事については認めますけども、それをDVっていう形で、ひとくくりにされるのだけはね、これはちょっと受け入れる事が出来なかったんですよ、だって危ないから。」ということでした。
 
ということは、このブログに書かれていることは、三橋氏にとってはDVには当たらない、ということになりますね。
 
さかき蓮さんがTwitterで田中秀臣氏と対談したという事を明らかにしていましたが、その後、気になるツイートをされてました・・・