評論家・江崎道朗氏によると、米国で東京裁判の見直しを進めようとする動きもあるんだそうです。

 

少しずつですが、公文書が公開される事で新しい発見がなされ、歴史の空欄を埋めるようなことも起きています。

英国で日本に関する資料が見つかった、というニュースは時々ありましたが、今回、今や常識となりつつある「ルーズベルトは日本の真珠湾攻撃を事前に知っていた」という話しを証明する英米首脳の往復電報が出てきたそうです。

 

■日本によるハワイの真珠湾攻撃から8日で76年。

英国立公文書館が所蔵するウィンストン・チャーチル英首相とフランクリン・ルーズベルト米大統領の往復電報によれば、ルーズベルトが開戦13日前に日本の「軍事行動」を予測していたことがうかがえる。

チャーチルも返電で対日譲歩に反対し、ルーズベルトが日本に最後通告の「ハル・ノート」を提示した後の開戦直前に米英合同で事実上の“宣戦布告”を呼び掛けていた。

 

米英指導者は戦争回避より先制攻撃するように日本を追い詰め、開戦へと誘導したとの見方が専門家から改めて示されている。 

 

日米が戦争回避に向けて交渉を続けていた1941年11月25日午後1時20分に英外務省が受信したチャーチルあての電報でルーズベルトは、日本側から20日、「南部仏印(仏領インドシナ)から兵を北部仏印に引き揚げる代わりに米国側は通商関係を資産凍結前に戻し石油の供給を約束する」暫定協定案が提出されたと伝えた。

その上で、米政府が「日本が南部仏印から撤兵し、北部仏印の駐留兵を7月26日時点の2万5千人以下にすれば、米国は在米日本資産の凍結を解除する」などの提案を作成したと報告。

 

これは後のハル・ノートの原案の一つで、幻の「暫定協定案」(日本が受け入れ可能な3カ月休戦案)と呼ばれる。 

 

しかし、ルーズベルトは追記して「これは日本人に対し適正な提案と思えるが、諾否は実のところ国内の政治状況による。あまり希望を持てない」と悲観的な見通しを示し、「われわれ(英米)はすぐに起こるであろう本当の困難のためにあらゆる準備をしなければならない」と警告した。

 

日本を挑発、追い詰めた 英国立公文書館が所蔵するチャーチル英首相とルーズベルト米大統領の往復電報で明らかになったルーズベルトの追記について、大戦中の米英関係に詳しいウォーレン・キンボール米ラトガース大教授は、編著「チャーチルとルーズベルト-完全な交信」で、「ルーズベルトは戦争回避よりも戦端を開こうとしていたと解釈される。また日本との開戦危機を欧州戦線への入り口に利用していたとの議論がある」と分析している。

 

◇より厳しい協定案 中西輝政京都大名誉教授は産経新聞に、「暫定協定案を伝えて、日本が受け入れないだろうというのは矛盾している。

 

日本の軍事行動が差し迫っていることを予測していたことは明らかで、チャーチルから最後通告のハル・ノートを出すことへの了解を取ることが目的だったのではないか」と指摘する。 

 

米エール大図書館所蔵のスチムソン米陸軍長官日記には、1941年11月25日(米国時間)、ルーズベルトが軍事会議で「米国は来週月曜日(12月1日)にも攻撃を受ける可能性がある」と注意を促し、問題は「われわれ自身が過大な危険にさらされることなしに、日本に最初の1発を撃たせるような立場にいかに誘導していくかだ」と発言したと記されていた。

 

ハル回顧録などによると、暫定協定案には中国が猛反対した。

ルーズベルトはこれを放棄して翌26日、日本に、より厳しい協定案、いわゆるハル・ノートを提示。

中国、仏印からの軍撤退など、日露戦争以降に日本がアジアで築いた権益の放棄を求めた。

日本は「眼も暗むばかり失望に撃たれた」(東郷茂徳『時代の一面』)ことで米国との交渉打ち切りを決め、戦争を決意した。

 

◇チャーチルも呼びかけ 

 

ロンドン大学経済政治学院(LSE)のアントニー・ベスト准教授は「ルーズベルトは日本がタイなどへ何らかの攻撃準備をしていることを把握していた」とした上でチャーチルにも戦争回避の意思はなかった。それより米国からアジア、欧州情勢での英国支持の確約を得るという外交目標が大きかった」と分析する。 

マレー作戦など日本の軍事行動を察知していたチャーチルは30日の電報でルーズベルトに、「日本のこれ以上の攻撃(軍事作戦)は、ただちに最も深刻な結末に至ると(米英合同で)日本に宣告すること」が残された手段であると提案しており、中西氏は、「チャーチルは対日戦に米国を巻き込もうと事実上の宣戦布告を呼び掛けた」と読み解いた。

 

 日米の開戦責任について、東京裁判の判決は、「米国の譲歩にもかかわらず、日本は戦争計画を推進し、真珠湾の奇襲をはたし、強引に戦争に持ち込んだ」と一方的に日本に非があったとしている。

 

しかし、往復電報は、「日本が和平交渉の最中に奇襲攻撃した」卑怯なだまし打ちではなく、「米英指導者が戦争ありきで日本を挑発して開戦へと追い詰めたことがうかがえる」(中西氏)との解釈を裏付けている。

 (産経新聞2017年12/8)

 

「在米日本資産の凍結を解除する」とありますが、これは米国から日本が受けていた挑発行為のひとつでもあり、日本人に対する人権侵害にもつながる措置でした。 

 

しかし、今年2回目を迎えたハワイでの日米追悼式典、ハワイの真珠湾は日米の和解を象徴するものになりました。

 

■ 旧日本軍による米ハワイの真珠湾攻撃から76年を迎えた7日朝(日本時間8日未明)、犠牲者を悼み、米退役軍人をたたえる式典が真珠湾に面した公園で開かれ、米軍関係者や日米の招待客ら約2千人が出席した。

攻撃が始まった午前7時55分(日本時間8日午前2時55分)に合わせ、黙とうをささげた。

 

オバマ前米大統領と安倍晋三首相が昨年末、攻撃で撃沈された戦艦アリゾナの上に浮かぶ記念館で献花し、恩讐を乗り越えて強固な同盟関係構築を示した歴史的訪問から初めての式典。

 

退役軍人からは「和解が進んだことは素晴らしい」との声が上がった。

 

米海軍とアリゾナ記念館を管理する国立公園局が主催。

戦艦アリゾナの元乗組員や真珠湾の米軍基地にいた退役軍人ら生存者十数人が出席した。(産経新聞2017年12/8)

 

日米は和解し強固な同盟関係を築いていますが、70年を経て日米の戦争の背後に何があったのか、ルーズベルトやチャーチルが戦争ありきで日本を追い込んで行ったことが裏付けられる資料が出てきましたが、チャーチルの知らないところで、実はルーズベルト自身が戦争に向かうように、日本との戦いを続けるように、謀略工作の中にいたことも明らかになってきていますし、さらに実はソ連の工作員が終戦を遅らせていた、ということも明らかになって来ています

 

本当の敵は別にいた。

 

日本と同様に米国にも本当の敵は誰だったのか…問う人たちがいるんだとか。

過去から学ぶ事で、同じ失敗をしないように、負けない選択をするために、誰と組むべきなのか、日本は誰と戦っているのか、見極める必要があります。

 

そして歴史から多くの事を学ぶためにもこちらのブログを紹介させていただきます。