■馬列学院
日本人革命工作員養成所「馬列革命学院」

1952年(昭和27年)、中国共産党は日本共産党と連携して中国の北京郊外に「馬列学院」を開設し、日本から密入国した日本共産党員と、中国大陸で捕虜になっていた日本人など1500人に対して徹底した共産革命工作員教育を施した。

中国共産党の革命教育を受けた日本人1500人もの革命の
プロ工作員たちは1958年に密かに帰国し、政界、学会、
マスコミ界、それに中央官庁に入り込んだ。

これら中国共産党の密命を受けた革命工作員たちに対して、
中国共産党は宝石や現金などの工作資金だけでなく、拳銃な
どの武器も提供していた。
(『サンデー毎日』昭和36年3月特別号 「馬列革命学院」)

※馬列(マレイ)学院の馬(マ)はマルクスで、列(レイ)はレーニンの頭文字からなる、文字通りマルクスレーニン主義の共産革命家の教育機関、3年で2500人が馬列学院で学ぶ。

■日本共産党の連携

・北京機関(ペキンきかん)
1950年、書記長の徳田球一や野坂参三ら日本共産党の一部幹部が、正規の手続きによらずに中央委員会を解体し、非合法活動に移行するなか、中国に渡航してつくった機関。
ソ連や中国の資金援助を受けて、武装蜂起式の日本革命を指導した。
日本には徳田らが指名した臨時中央指導部が残った。
現在、日本共産党は、正規の方針に基づく機関でなく、党と無関係であるとしている。

当時日本を占領統治していた連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、1950年にレッドパージを開始して日本共産党に対する締め付けを強化していた。
徳田ら幹部が公職追放処分や団体等規正令違反による逮捕状が出され、幹部の多くは地下活動に移った。
伊藤律の回想によると、この状況を受けて毛沢東が直接「徳田を日本から救い出せ」と指示したことが、北京に移るきっかけの一つであったという。
徳田は当初渡航に強く反対したが、8月上旬頃に極秘に開かれた政治局会議で中国への渡航が決まった。
8月15日、徳田が伝書使として中国に派遣した宮島義勇が帰国し、「日本共産党の指導者を迎え入れる用意がある」という中国共産党の意向を徳田に伝えた。
10月に徳田は大阪湾から船で密かに出国し、北京に渡った。

■武村 正義(たけむら まさよし、1934年(昭和9年)8月26日 - )は、日本の自治官僚、政治家。

八日市市市長、滋賀県知事(3期)、衆議院議員(4期)、新党さきがけ代表、内閣官房長官、大蔵大臣を歴任。政界引退後は龍谷大学客員教授、徳島文理大学大学院教授を務めた。
(wikipediaより)

◆四十歳で滋賀県知事に当選し、一九八六年に衆議院議員に転身した武村正義は、中央政界の金権体質に大きな違和感を覚える。
その後、リクルート事件を機に田中秀征、鳩山由紀夫、石破茂らとユートピア政治研究会を結成、「政治改革」へと突き進んでいく。
( Google Booksより)

■郭 沫若(かく まつじゃく)

沫若は中華民国、中華人民共和国の政治家、文学者、詩人、歴史家。原名は郭開貞で、開貞は諱、沫若は号にあたる。字は鼎堂。中国の近代文学・歴史学の先駆者。
生年月日: 1892年11月16日
生まれ: 中華人民共和国 楽山市
死没: 1978年6月12日, 中華人民共和国 北京市
学歴: 成都石室中学
著書: 創造十年: 続。創造十年、 則天武后・筑: 始皇帝と高漸離、 桜花書簡: 中国人留学生が見た大正時代

1914年に日本へ留学し、第一高等学校予科で日本語を学んだ後、岡山の第六高等学校を経て、九州帝国大学医学部を卒業。
在学時から文学活動に励み、1921年に文学団体「創造社」の設立に参加する。
この設立の仲間に、郁達夫や成仿吾、張資平、鄭伯奇などがいる。
この間に処女詩集『女神』を発表。

その後国民党に参加するも、反帝国主義運動によって発生した五・三〇事件で左傾化した。北伐軍の総政治部主任となるが、1927年蒋介石と対立後に南昌蜂起に参加し、直後に中国共産党に加入。
蒋介石に追われ、1928年2月日本へ亡命。千葉県市川市に居を構え、中国史の研究に没頭する。
『中国古代社会研究』、『両周金文辞大系考釈』、『我的幼年』などを執筆した。
1937年の盧溝橋事件が起こると日本人の妻らを残し帰国して国民政府に参加した。
1942年に重慶で戯曲『屈原』を発表、大きな反響を呼ぶ。

1946年国共合作のための協商会議に参加。
決裂後に内戦反対運動を推進し、戦後は中華人民共和国に参画して政務院副総理、中国科学院院長に、1950年全国文学芸術連合会主席、1954年には全人代常務副委員長に就いた。
1958年共産党に入党。
1963年中日友好協会名誉会長。
文学・史学の指導に努めるが、反右派闘争以降は発言や作風が毛沢東に迎合するようになる。
人民共和国建国後の作品には、『蔡文姫』『武則天』などがあり、いずれも北京人民芸術劇院によって上演された。
特に『蔡文姫』は焦菊隠の演出が高く評価され、21世紀の今日まで繰り返し上演されている。

文化大革命発生直後の1966年4月14日、全人代副委員長として常務委員会に出席した郭沫若は、「今日の基準で言えば、私が以前に書いた全てのものは、厳格に言えば全て焼き捨てるべきで少しの価値も無い」との自己批判を行った。既に呉晗、廖沫沙らが打倒されるなか自身を守るためであったが、知識人の思想改造の成功例として取り上げられ毛沢東の庇護を受けた。

毛沢東や江青らの詩を賛美し、批林批孔運動に乗り、著書『李白と杜甫』で杜甫を貶め、毛沢東が好きな李白を讃えた。また、当時の政策を褒める詩を多く発表した。しかし四人組が逮捕されると一転して彼らを批判する詩を発表した。これら文革期の言動が彼全体の評価に影響している。
1971年、科学院院長、全国人民代表大会常任委員会副委員長を務めたが、1978年北京で病没。
(Wikipediaより)