最近引越しをした。
通勤時間が1時間20分から40分になった。
うーむ、なんと快適な。
それでは飽きたらない。
ううーむ、さらに快適な。
1日の中で同じ1秒、同じ1分と時間を過ごす時に、
より意味や価値が多い方が心持ちはよい。
通勤時間は、その意味や価値が最も低い時間のうちの一つだと私は感じてしまう。
東京の通勤電車は人が多く、何もできないことの方がほとんどだ。
高校の頃、1時間かけて電車で通学をしていた。
その頃は九州の片田舎でもあったので、座れはしなかったが手もとに余裕はある。
おじさんのお腹に押し潰されることもなく(お互い様)、
なにがしか有意義な時間として使っていた。
東京の通勤はどうだろう。
忍耐の文字がふさわしい混雑度合い。
加齢臭くゆらす妙齢のオヤジ達が、お互いの加齢臭に辟易をしながら耐え抜く時間。
椅子の圧倒的競争率、そして椅子の圧倒的睡眠率。
ちょうど2年前に東京に転勤してきたが、
関西との差は通勤時間が「何かに使える時間」か
「ただ過ぎていく時間」であるかどうかであった。
ちなみに東京に来て3ヶ月で足の骨が骨挫傷(骨の内部の骨折らしい)をやり、
松葉杖生活をしていた。
その時は耐える時間(物理)であった。
本当に席をゆずってくれる人のありがたさを感じたため、
なるべくそういう困っている人は見るようにしている。
閑話休題。
東京の通勤の中で、少なくとも誰かに押しつぶされながら何か深い考察に没入できるぐらい、
肉体的・精神的な達観はこの2年間ではできなかった、ということのようだ。
さて、翻って今は、通勤という人との接触の機会を極力減らさなければならない。
私は、そのことを前向きに捉えている。
今まで通勤に費やしていた時間を、ほかの何かに。
片付けに。家事に。少しの睡眠時間に。
痛勤と揶揄される時間が違う意義のある時間に強制的にとって変わったこの経験は、
いったいどんな変化をもたらすのだろう。
この変化についていけるかどうかが、
巣篭もりから外にでた時に試されることなのかもしれない。
そんな妄想を、巣篭もりながら行っている。