序を読んだので、第一編から読んでいきたい。

 

第一編はこんな構成である。

第一編 純粋経験

 第一章 純粋経験

 第二章 思惟

 第三章 意志

 第四章 知的直感

 

一番最初に私がみたときの感想は、二つあった。

「なんやらようわからんことを言っとる」

「なんだか面白そうなことを言ってそうだ」

の二つ。

 

前者は、言葉がわからないことによる。

それぞれのタイトルの言葉がよくわからない。

何?純粋経験って。

何?知的直感って。

そして第一章と第四章まで、どれも同じような意味合いじゃないの?

 

 

おもしろそうと思ったのは次の一点。

直感?

日本における哲学を最初にしたと言われている人の書物に、直感?

 

直感って、直感なんです。

至極、個人的なもの。

自分しかわからない、他人には共有できない個人的な胸騒ぎ。

そんな個人的なものが、普遍的だと言われている哲学に入ってくる?

それが西田哲学の、私にとっての面白さでした。

 

では読んでみましょう、ということで第一章を読んでみました。

…わかりません。

 

ちょっとよんでみてください。

https://www.aozora.gr.jp/cards/000182/files/946.html

ここの第一章第一編第一段落です。

 

彼は言います。

経験とは事実そのままに知ることだ。

…経験ってなんでしたっけ?

例えば朝起きる。経験です。

会社へ行く。経験です。

料理を食べる。経験です。

そういうことですかね。

そういう経験は、事実そのままにしることだそうです。

…?

朝起きることは事実そのままにしることでしょうか?

会社へ行くことは知ることですか?料理を食べることは?

 

…何か違いそうです。

事実そのままにしることが経験、とはどういうことでしょうか。

 

「いい経験でした!」という感想を持つとき、人はどういう経験をしているでしょうか。

自分にとってこれはいい経験だった!と言える経験…。

それはどんなものでしょうか。。。

 

一つ思い至ったのが、

誰にどう思われようが、自分にとってはよい、という判断を下したいような自分の今の価値観を形成している

事実である、ということでした。

例えば部活で顧問の先生の横暴をとがめたり。

やるべきことを整理して文句を鎮めたり。

 

でもそんな卑近な例を西田幾多郎さんはイメージしていたのでしょうか。

おそらく、否。

 

では、彼がこの文脈で言っている経験、とはなんだったのでしょうか。

 

私は、この問いに答える術を持ちません。

のちの西田幾多郎さんの知っているからかもしれませんが、

無理やりこのときのフレームに幾多郎さんの考えを合わせた結果こうなった、と考えています。

 

「何か」という問いでは問いきれいない豊かさが、「経験」というものにあるのではなかろうか、

人が生きるということ全てが今という経験に、今という経験を作り出す前提にあるのではなかろうか。

そしてその作り出す先に、全てが内包しているものが今ここにあり、

言葉ではなく直感で感じ尽くさなければならないという使命感が、

生きるもの全てに課せられているのではなかろうか。

それが生きる上での善である。

 

そう語った書物だとおもっています。

私はこうおもいます。

一章で、全て語りたいことは終わっているし、

語りたいことは全く語れていない。

西田幾多郎さんが語りたかったことは終ぞ語り尽くせなかった。

だからこそ彼は必死に考えていき続けられた。

 

そうでなくてもいい。

でも、自分はそうありたい。

そんな、自分の目標としての姿勢を、書物から見せてもらった、段落でした。

大学の頃専攻をしていた。

何をかって、西田幾多郎さんを。

 

ゲゲゲのキタロウさんじゃないですよ。

西田のキタロウさんです。

 

僕にとって唯一このつまらない世の中の価値を分かり続けた人だ、と

初めて認識できた人なので、専攻していました。

今ではもっといっぱいいますけどね、この世の中の価値を分かり続けている人。

いつの時代にもいるし、そんな人が時代を作っていくのでしょう。

 

その中で、私の中では一際大きな輝きを放った人だったので、

大学時代の数年間を費やしても全く後悔をしないぐらい、楽しかったです。

西田幾多郎さんを知ることができて。

 

場所の理論や絶対矛盾的自己同一やなんやらかんやらよくわからない用語を出したり、

イデオロギーに利用されたりしても、唯一変わらなかったのは、彼は人間として臨んでいた、と思う。

全身全霊をかけて考えるから、「わからん!」といった講義を後にすることもしたし、

いろんな人と盛んに書簡を交わしたりもしたのだろう。

 

人からはどう思われるかはわからないけど、

自分なりの最大限の敬意を込めて、青空文庫善の研究を引用しながら読んでみよう。

 

そう、お酒を飲みながらふと思ったのでやろうと思う。

この本は大学の頃1ページに数時間ずつかけて読んだ本なので、

なんやかんや話すことがありそうな気がしています。 ※酔っているので文体めちゃくちゃ

もし読んでくれる人がいたら、酒飲みの戯言だと思って聞いていただけると幸いです。

 

とりあえず下のリンクの序だけ読んで欲しい。

▪️リンク 青空文庫 善の研究

https://www.aozora.gr.jp/cards/000182/files/946.html

※その先に行ってもいいけど、西田さん読者のこと全く考えないから

 すごく話進んでわからなくなること請け合いです。(褒め言葉/西田さんはそうでなくっちゃ)

 

第一段落は、今のところのワシの考えやと中途半端やけどそれはそれであれやから本出しますわ、いったん。と言っている気がします。

 

当時読んでいて大変だったのは第二段落からです。

純粋経験って何?

はてなんでしょう?

 

経験というものを考えるきっかけは、見る、とか触る、とか匂う、とかいう経験です。

経験とは、自分がいて、経験の対象となる何かがあって成り立つ。

そういうものですよね。

 

立ち止まってもうちょっと考えてみましょう、と彼は言います。

自分があって、何かがある。

でもそれって、何か挟まってない?

自分が「自分がある」と考えているから「自分」と「何か」が分かれていない?

だったら試しに、自分と何かが分かれていない瞬間について

考えてみることは面白くない?

そんなことを言っている、と私は受け止めました。

※もし違うように受け止めた人がいればぜひぜひお話ししたい…(笑)

 

では自分と何かが別れていない瞬間とはなんでしょうか。

ふふふ…なんでしょうね??

わてはそれを自分なりに理解して倫理学にまで発展させて善を議論したで。

純粋経験とはそんな人と人との間柄の話ができるぐらい含蓄が籠ってるものやったんや、

これってすごくない?と言っているのが序なのかなぁ、と受け止めています。

 

どちらにしても、西田幾多郎さん自身はすごく満足感をもってこの序を書いたのであろう、と

すごく感じています。

言葉の端々から「わて書いたったわ」感がすごい気がしています。なんででしょうね。

でも、それぐらいの力作だと感じます。

 

どこの文章からも彼の生命力を感じる。

そんな書物ってなかなかないと思うんです。

私は感じた。この本に大学の初めに出会ってしまったがために、

のめり込んでしまった。

 

そんな本ですので、ぜひ読んでみていただけると幸い。

ここをみていると私なりの読み方はおそらくわかるので、

ぜひ読者に(宣伝)。

本当に一段落ずつ読んでいきますので… 

※個人の感想を述べるだけです。専門レベルの精読はいたしませんのでご了承をば…

最近引越しをした。

 

通勤時間が1時間20分から40分になった。

うーむ、なんと快適な。

 

それでは飽きたらない。

今は人との接触を避けるためにも、在宅ワーク

ううーむ、さらに快適な。

 

1日の中で同じ1秒、同じ1分と時間を過ごす時に、

より意味や価値が多い方が心持ちはよい。

通勤時間は、その意味や価値が最も低い時間のうちの一つだと私は感じてしまう。

東京の通勤電車は人が多く、何もできないことの方がほとんどだ。

 

高校の頃、1時間かけて電車で通学をしていた。

その頃は九州の片田舎でもあったので、座れはしなかったが手もとに余裕はある。

おじさんのお腹に押し潰されることもなく(お互い様)、

なにがしか有意義な時間として使っていた。

 

東京の通勤はどうだろう。

忍耐の文字がふさわしい混雑度合い。

加齢臭くゆらす妙齢のオヤジ達が、お互いの加齢臭に辟易をしながら耐え抜く時間。

椅子の圧倒的競争率、そして椅子の圧倒的睡眠率。

 

ちょうど2年前に東京に転勤してきたが、

関西との差は通勤時間が「何かに使える時間」か

「ただ過ぎていく時間」であるかどうかであった。

ちなみに東京に来て3ヶ月で足の骨が骨挫傷(骨の内部の骨折らしい)をやり、

松葉杖生活をしていた。

その時は耐える時間(物理)であった。

本当に席をゆずってくれる人のありがたさを感じたため、

なるべくそういう困っている人は見るようにしている。

 

閑話休題。 

東京の通勤の中で、少なくとも誰かに押しつぶされながら何か深い考察に没入できるぐらい、

肉体的・精神的な達観はこの2年間ではできなかった、ということのようだ。

 

さて、翻って今は、通勤という人との接触の機会を極力減らさなければならない。

私は、そのことを前向きに捉えている。

今まで通勤に費やしていた時間を、ほかの何かに。

片付けに。家事に。少しの睡眠時間に。

 

痛勤と揶揄される時間が違う意義のある時間に強制的にとって変わったこの経験は、

いったいどんな変化をもたらすのだろう。

この変化についていけるかどうかが、

巣篭もりから外にでた時に試されることなのかもしれない。

そんな妄想を、巣篭もりながら行っている。