「受けるよりは与える方が、さいわいである」使徒行伝20章35節 | みな1824 ~ハートに今を刻もう~

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幸福とは何か?


 人間がこの世に生まれ、それぞれの人生を歩む中で、すべての人間は幸福な人生を望みそれを追い求める。

しかし、幸福とは何かと考え始める時、問題は複雑になっていく。

曾野綾子さんの小説『幸福という名の不幸』のタイトルが示す通り、幸福とは何なのだろうか


 よく、私達は悪い事ばかりが重なると「何故、私ばかり嫌な思いをするのだろう」

「なんて私は不幸なんだ」と考えてしまいます。

その考えにとらわれてしまうと、周りの人間はどんどん先に進んで、自分だけが1人取り残されたような

この先も、もう悪い事ばかりではないのか、と自暴自棄になってしまう事も。


 しかし不幸があるからこそ、幸福の大切さがわかるという事もあるのです。

辛くて、苦しくて、もうダメだと思っても、心のどこかで「小さな期待」を持ってはいませんか?

人はその不幸から、立ちあがろう、頑張ろうと考えた時、すでにその不幸を乗り越えているものなのです。


 さて、現代社会の中で幸福とは何か?を問うとします。

大抵は「おを持つこと」「地位名声を得ること」しい容姿」などと考える人が多いと思います。

それは悪いことではまったくなくて、誰でも(私も)普通はそう考えるかと思います。


でも、それって「幸福」ではなく「満足」なのでは?と思うわけです。

目に見えるものに対するこだわりが強いために、今、この社会の中では幸福」と「満足」の区別が

つきにくい時代になっているのだと思います。



そこで、幸福」について考えてみます。

言葉で「幸福」」と表現する内容を大まかに整理してみると4つの段階があるかと思います。


1つめは「快楽」で、たのしみ(Pleasure)

人間のさまざまな感覚に刺激を加えることによって生まれる喜びの感情。


2つめは「幸福」で、しあわせ(Happiness)

快楽が自己の感覚的な喜びであるのに対して幸福(しあわせ)とは、さらに精神的なものも含まれ

永続性をもっています。多くの人々が望んでいるのは、この幸福であるといえるのでは?


3つめは「歓喜」で、よろこび(Joy)

人は必ずなんらかの壁にぶつかります。

その壁を突き破るためには、本人の努力はもちろん厳しい試練も要求されます。

そして、その壁を突破した時に得られる、心の底から湧きあがってくる喜びの感情、それが歓喜。


4つめは「祝福」で、さいわい(Blessedness)

聖書では、幸福という代わりに「さいわい」という言葉が用いられています。

この「さいわい」は私達が、普通考える幸福とは異質で、場合によっては正反対とさえ考えられます。

それは目的として追求するものではなく、自分の力で生み出すものでもない。

生きているうえで、どこからか与えられる恵み、喜びであるといえます。


幸福」とは、自分の人生に与えられた課題や使命を遂行していく中で、さまざまな経験をし

たくさんの人達と出会い、喜怒哀楽することによって、生じたり、得られたり、具わったりする

信頼友情希望」など、決して目には見えませんが、心で感じることのできる

大切なもの」なのではないか?と、私は考えます。


使徒行伝 20章35節

~~また『受けるよりは与える方が、さいわいである』と言われた主イエスの言葉を

記憶しているべきことを万事について教え示したのである。